未来の指揮官・興梠慎三が分析するミシャレッズと鹿島の違い【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(15)】
監督は負けているときに一番変わる
1つの大きな出会いも、興梠を監督業へと向かわせている。青山、梅崎、そして森脇のセカンドキャリアにも多大な影響を与えた指導者、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督との邂逅である。
「監督って、負けているときに一番変わるんです。これまで多くの監督と一緒に仕事をしてきましたが、負けが続くとみずからの哲学を捨て、それまでやってきたサッカーを変える人が少なくなかった。でも、ミシャはどんな状況でも哲学を崩さない。その点ですごく尊敬できたし、あんな指導者になりたいって思わせてくれた人でした」
中盤のプレーヤーとして2005年に鹿島アントラーズに入団した興梠は、その後2トップの一角で起用される機会が徐々に増えていったが、1トップとしてエースストライカーの重責を担うのは、13年に浦和に移籍し、ミシャのもとでプレーするようになってからだ。ミシャの攻撃的なスタイルの中で、天性の得点感覚に磨きがかかった。
「ミシャって、ミーティングでも相手の分析は一切しないんです。それは自分たちがボールを持っていれば、守備なんてしなくてもいいという考え方だったからで、相手ではなくとにかく自分たちのサッカーを突き詰めようとしていた。フィーリングがすごくマッチしましたね。ズキューンって刺さるフレーズは特になかったんですけど(笑)、彼のひと言ひと言が『だよな』と、すんなりと入ってきました」
自分はエースからはほど遠かった
「将来は僕もミシャみたいな魅せるサッカー、美しいサッカーがしたいというのはベースとしてもちろんあります。ただ一方で、なぜミシャが監督だった5年半(12年~17年途中)で、浦和はたった1つしかタイトルを獲れなかったのかということも考えなくてはいけない(唯一のタイトルは16年のルヴァンカップ)。
多くのタイトルを勝ち取った鹿島での8年間と何が一番違うと感じたかと言えば、やっぱりトレーニングに臨む姿勢なんですね。僕が鹿島にいた頃は、他のJリーグのクラブに勝つより、紅白戦でサブ組に勝つほうが難しかったくらいでしたけど、ミシャの浦和はファミリー感が強くて、バチバチ感がなかった。そこが唯一、ミシャのダメだったところかなと、個人的には思っています」
スタメンを固定する傾向が強かったことも、ミシャのチームに緊張感や危機感が醸成されにくかった理由だろう。興梠が、遠く離れて暮らす父を想うような表情で言う。
「のちにミシャはこんなことを言っていましたよ。『責任は私が負うのだから、信頼している選手しか起用したくない。成績が振るわなくて私がクビになるとしても、最後まで彼らと戦いたい』って。そんなところもミシャの魅力ではあったんですけどね」
鹿島時代の経験とミシャの教え――。その2つをミックスした監督像が、すでに興梠の中には出来上がっているようだった。
だが、そうして引退後の日々に充実感を滲ませ、情熱的に監督業への想いを語る興梠に現役時代の話を持ち掛ければ、すっと熱が引いたようにその口ぶりが淡白になる。梅崎の「興梠評」を伝えても、リアクションはどこまでも控え目だった。
「浦和のエースなんて言われましたけど、大事なときにゴールを決めてチームを勝たせるのがエースだとすれば、自分はほど遠かったなと思います。僕から言わせれば、ウメちゃんのほうがすごい選手だった。同世代では誰よりも早くA代表に入っていたし、どちらかと言えばこちらが追いかけるような存在でしたから」
マイペースな天才肌のストライカーは、これまで出会った6人とは異なり、「北京五輪世代」という枠組みと微妙な距離感を保っていた。
<第16回につづく>
※文中敬称略
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