去り行く北京五輪世代の矜持と未来

最後の日に初めて知った愛情『お前が浦和に残したのは…』【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(14)】

吉田治良

毎回テレビの前にかじりついて

12年シーズン、3-4-2-1システムの不動の右ストッパーとして広島のリーグ初制覇に貢献した 【(C)J.LEAGUE】

 その20年のキャリアを通じて、森脇が日本代表でムードメーカー以上の存在になることはなかった。ピッチに立てば戦える自信はあったが、しかし当時、同じ右サイドバックのレギュラーだった内田篤人との差は、「縮められたと思っても埋めきれなかった」。ただそれでも、日本代表は常に意識していたという。

「ワールドカップのメンバー発表のときは、それまでまったくメンバーに入っていなくても、もしかしたら名前を呼ばれるんじゃないかって、毎回テレビの前にかじりついていましたね。それを言うと、みんなから『アホか』って笑われましたけど、僕は本気でしたよ」

 13年に愛する広島を離れ、浦和レッズへ新天地を求めたのも、「本気」だったからこその決断だった。しかし、「顔中に吹き出物ができるほど」悩みに悩み抜いて決めた移籍は、様々な誤解と誹謗中傷を生む。いかにも森脇らしい言動が発端だった。

「移籍する前のシーズン(12年)に広島でリーグ優勝をして、祝賀パレードがあったんですが、そこで地元テレビ局のカメラに向かって『広島サイコー!』って叫んだんです。その翌日が浦和への移籍会見だったにもかかわらず……(苦笑)。なんて軽い男だって、多くのファン・サポーターから叩かれましたね。

 移籍の決め手は、もちろん前年にミシャさんが浦和の監督になっていたことも大きかったんですが、純粋にあの5万人、6万人といった大観衆を飲み込むスタジアムでプレーしてみたかったし、そうすれば技術面だけでなく精神面でも、もう1段階、2段階成長できると思ったんです。広島に残っていても間違いなく成長はできたでしょう。でも、代表入りを見据え、プロとしてのキャリアを考えれば、あれが自分の中ではベストの選択だったとも思っています」

 3バックの一角に定着し、浦和でもミシャの攻撃サッカーの一翼を担った森脇は、しかしその無邪気で大らかなキャラクターが逆に反発を招き、厳しいサポーターからブーイングを浴びることも少なくなかった。

浦和を離れる最後の日に初めて…

ゴール裏に掲げられた横断幕を見れば、森脇がいかに浦和サポーターから愛されていたかが分かる 【(C)J.LEAGUE】

「浦和のサポーターに愛されていると感じたのはいつですか?」。少し意地悪な質問をぶつけてみると、苦笑いを浮かべながら、こう即答する。

「(19年12月の)退団セレモニーのときですね。埼玉スタジアムのゴール裏のサポーターが僕の46番のユニホームを着て、《お前が浦和に残したのは最後まで諦めない強い心。ありがとう森脇》って書いた横断幕を掲げてくれていたんです。『マジか、こんなにも俺のことを思っていてくれたのか』って、チームを離れる最後の日に初めて知ったんです。正直、『これまでにもっとたくさん愛情表現をしてくれても良かったのに』って思いましたけどね(笑)」

 森脇にとって、サッカーは1つのエンターテインメントだ。テレビ番組に出演し、ユース時代から仲のいい1歳下の槙野智章と一緒におちゃらけてみせたのも、「こんなアホな選手がいるのか、面白そうだな、サッカーを見に行きたいなって思ってもらえたら」という想いが根底にあったからだ。ゆえに叩かれることも多かったが、それでも彼はみずからのサッカー人生に大きな誇りを持っている。

 浦和時代の17年に成し遂げたACL制覇も含め、手にした数々のタイトルは、森脇にとってワールドカップ出場や欧州のトップリーグで活躍することにも匹敵する勲章だ。

 それまでのにこやかな表情が一瞬消え、すっと背筋を正して言う。

「ピッチに入れば誰よりもハードワークをするのが僕のスタイル。それを20年間貫いてきたからこそ、これだけのタイトルが獲れたんだと思っています。サッカーに対して妥協することも、サッカーを馬鹿にしたことも、一度だってなかった」

 森脇もまた、誇り高き反骨の北京五輪世代の1人なのだ。

 19年に浦和を退団後、京都サンガF.C.、愛媛を経て24年シーズンを最後に引退した森脇は現在、愛媛の「ポジティブエナジャイザー」としてクラブを盛り立てる一方で、盟友・槙野が率いる神奈川県社会人リーグ1部の品川CCでコーチを務めている。さらに並行して、イベントやテレビへの出演などを通じてサッカーの魅力を伝える活動にも熱心に取り組んでいるが、将来はミシャをはじめ、これまで師事してきた指導者たちのエッセンスを取り入れながら、「世界を目指せる監督になる」のが大きな夢だ。

 そんな森脇が、「シンゾーが指導者になりたいと思っていたなんて」と意外そうに語ったのが、彼のもう1人のかけがえのない盟友・興梠慎三である。北京五輪世代を巡る旅の最後に訪れたのは、真夏のような入道雲が湧き立つ7月上旬の大原サッカー場だった。

<第15回につづく>

※文中敬称略

(企画・編集/YOJI-GEN)

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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