去り行く北京五輪世代の矜持と未来

最後の日に初めて知った愛情『お前が浦和に残したのは…』【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(14)】

吉田治良

ピッチ外でおちゃらけていたのは、「こんなアホな選手がいるのか、面白そうだな、サッカーを見に行きたいな」と思ってもらうためだった 【YOJI-GEN】

サッカー人生を変えた何気ない一言

 さかのぼること、およそ20年前。J2の愛媛FCでの1年目、2006年シーズンを終えた森脇良太は、レンタル契約延長の手続きを行うため、所属元であるサンフレッチェ広島のクラブオフィスを訪れていた。

「せっかくだから、練習に参加していけよ」

 あの日、広島の強化部長が何気なく口にした一言が、森脇のその後のサッカー人生を大きく変える。

「紅白戦にも出たんですけど、そこで僕はクロスを全ミスしたんです(苦笑)。これでもう復帰は難しいなと思っていたら、06年の途中からチームを率いていたミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)が、『あいつは誰だ? とてもいい選手だな』って強化の人に言ってくれていたそうなんです。あんなにミスをしていたのに、なんで? って思いましたよ(笑)」

 ミシャの目に留まった森脇は、それから1年後の08年シーズン、正式に広島への復帰を果たす。なぜミシャが気に入ってくれたのか、その答え合わせはすぐにできた。

「それまでの僕は、ミスをしたらどうしようってビクビクしながらサッカーをしていたところがあったんです。でもミシャは、それが前向きなチャレンジをしたうえでのミスだったら、『ブラボー!』って褒めてくれた。それは僕の中で衝撃でしたね。

 ある試合で、バックパスをかっさらわれて失点したことがあるんですが、そのときも僕の頭を撫でながら、『気にすることはない。後ろからつなぐサッカーを実践しようとして起こったミスだし、むしろこの1つのミスで、お前がチャレンジしなくなってしまうことのほうが怖いんだ』って言ってくれたんです。体中に電気が走りましたね。もしミシャと出会っていなければ、僕のサッカー人生はもっと早くに終わっていたかもしれません」

 08年夏の北京五輪出場は叶わず、その後広島でレギュラーに定着しても、なかなか代表からは声が掛からなかったが、チャンスは意外な形で訪れる。11年初頭のアジアカップを控えたアルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表から、国内合宿のトレーニングパートナーの1人として招集されたのだ。

ベンチからパワーを送って鼓舞

キャプテンの長谷部誠に抱きつく森脇。アジアカップでは出番こそなかったが、ムードメーカーとしてザックジャパンを盛り立てた 【Photo by Robert Cianflone/Getty Images】

 シーズンが終わったばかりのタイミングで多くの選手が要請を辞退するなか、森脇は二つ返事でこれを引き受け、約1週間のトレーニングを全力でやり切った。

 朗報を受け取るのは、国内合宿を終え、兄の結婚式のためにグアムに滞在していたときだった。酒井高徳が怪我で離脱したため、追加招集で森脇に白羽の矢が立ったのだ。例によって冗談めかして言う。

「クラブの強化部から電話がかかってきたときは、『僕、なんかやらかしたかな』って思いましたもん(笑)。翌日が兄の結婚式だったんですが、すぐに一度日本に戻って、スパイクとレガースだけバッグに詰めて、(アジアカップ開催地の)カタールに飛び立ちましたよ。結婚式には参加できませんでしたけど、兄も喜んで送り出してくれました」

 チームに合流してあらためて実感したのは、当時のザックジャパンですでに主流を占めていた本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司をはじめとする同世代の意識の高さだった。

「とくに欧州組は、練習中はもちろん、オフの時間の使い方も上手くて、24時間、自分をデザインできていましたね。自室に専用のトレーニング器材を持ち込んだり、語学の勉強をしたり。ピッチ内に関して言えば、たとえば僕が練習中にパスミスをしても、彼らはそれを咎めたりしない。どうすればそれをリカバリーできるのかって、自分に矢印を向けるんです」

 劇的な形でアジアカップを制したザックジャパンで、結局一度も森脇に出番は巡ってこなかった。それでも、ザッケローニ監督の横に立ち、コーチのようにチームを鼓舞する彼の姿は、多くの人の記憶に残っているだろう。

「レフェリーに文句を言ったり、良いプレーをした選手を大声で褒めたりね(笑)。控えに回って悔しい気持ちはもちろんありましたが、それを態度には絶対に出したくなかった。そういう悔しさはピッチで、プレーでぶつけなくてはいかない。だからベンチからパワーを送って、率先してチームを鼓舞しようってことは意識していましたし、それが他のベンチメンバーにも伝わればいいなって思っていましたね」

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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