雑草の中の雑草・森脇良太の告白「圭佑にライバル心があった」【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(13)】
嬉しく思う気持ちが2割、嫉妬心が8割
「日の丸を背負って戦って、『柏木選手、走るファンタジスタだね』なんて言われて(笑)、すごいなって思う反面、めちゃくちゃ悔しかった。同世代の活躍を嬉しく思う気持ちが2割、嫉妬心が8割というのが本音でしたね。正直、ライバルの選手がミスをすれば、自分が代表に絡んでいけるんじゃないかって、そんな想いもありました。
もちろん周りに悪影響を及ぼしてはいけませんが、そういう気持ちがなければ、プロの世界ではやっていけません。ただ当時の僕は、今に見ておけよって燃えたぎるものは常に持ちながらも、そこに技術がついていかず、微妙なバランスの中で葛藤していた記憶がありますね」
結局、北京五輪のサイドバックには長友佑都、内田篤人、安田理大の3人が選出される。本大会で3戦全敗に終わったチームをどんな想いで見つめていたのかと問えば、彼らしいリップサービスもなく、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「どうですかね……そのときの感情か……あんまり覚えてないですね。試合は観ていましたし、もしかしたら自分を使わなかったから勝てなかったんだって、そんなことも考えていたかもしれない。唯一確かなのは、もっとやらなきゃダメだって、彼らの戦う姿から刺激を受けたことですかね」
挫折や嫉妬心を、向上心や反骨心に変えるのは、この世代の専売特許なのだと、もはや確信している。本田のようなトップランナーだけでなく、北京五輪に一切絡めなかった森脇も、それは同じだ。
「僕も一度だけ年代別代表に入って、そこで本田圭佑や細貝萌とかと一緒に練習して感じたのは、とにかく負けん気が強い選手がめちゃくちゃ多いなってことでした。その負けず嫌い度は尋常じゃなかった。負けず嫌いな人はたくさんいるけど、じゃあ負けないために何をするかってところまで一歩踏み出せる人は、そんなに多くないと思うんです。そこをとことん追求するのが、北京五輪世代だった。自分を高めることに関して、異常なくらい執着心があった世代でしたね」
圭佑がいたことさえ分からなかった
「本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司の3人は自分たちの世代では特別な存在でしたが、なかでも特に意識したのが圭佑でした。勝手にライバル心を持っていて(笑)、その立ち居振る舞いのすべてが気になっていました。サッカーと向き合う姿勢はもちろん素晴らしいんですが、同時に彼はサッカーを離れた後のことも、すでに20代前半で見据えていて、そのために今、何をすべきかを考えていた。特殊なオーラを放っていましたね」
何も意外ではないだろう。なぜなら森脇は、本田が生まれながらの天才ではなかったことを、彼もまた例外なく苦労を重ね、トップへと這い上がってきたことを知っていたからだ。高校時代に対戦した記憶がよみがえる。
「高校1年生のときに星稜高校と対戦したんですが、そこにいたことさえ分からないくらい、圭佑は目立っていなかった。だから高2の国体で、僕らの広島県代表と圭佑の石川県代表が対戦したときに、びっくりしましたね。『誰だ、こいつ?』っていう凄い選手がいて、それが圭佑だったんです。そこから一気に駆け上がっていくんですけど、彼もガンバ大阪でユースに上がれなくて、その高2くらいまでは結構燻ぶっていた印象がありますね」
07年の暮れ、愛媛での2年間で成長を遂げた森脇のもとに届いたのは、古巣からの復帰要請だった。
「出されたときは絶対に見返してやろうと思っていたのに、いざ声が掛かると『すぐに帰らせてください!』って(笑)。他のクラブからもオファーをいただいていたんですが、やっぱり中学のときから育ててもらった広島のエンブレムを胸にタイトルを目指して戦えるってことは、僕の中では特別だったんです」
08年、J2に降格した直後の広島に帰還した森脇は、ここで彼のサッカー人生を大きく揺り動かす師、「ミシャ」ことミハイロ・ペトロヴィッチ監督と運命的な出会いを果たすのだ。
<第14回につづく>
※文中敬称略
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