雑草の中の雑草・森脇良太の告白「圭佑にライバル心があった」【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(13)】
ピッチ上のプレーで反論
都内の高層ビルの一室で出迎えてくれた森脇良太が、開口一番、茶目っ気たっぷりにそう言って笑う。
たしかに、予選に呼ばれたこともなければ、豊田陽平のように逆転で本大会のメンバーに滑り込んだわけでもなかった。現役時代はJ1、J2、J3の全カテゴリーで優勝を経験し、さらに天皇杯、ルヴァンカップ、そしてACLも制した唯一無二の“タイトルコレクター”ではある。しかし同世代との比較では、例えば細貝萌のようなエリートではなかったし、水野晃樹や梅崎司のように華があったわけでも、青山敏弘のようにクラブのレジェンドとして崇められたわけでも、ましてや本田圭佑のようなカリスマを備えていたわけでもない。
むしろ、その天真爛漫な言動が、誤解や批判を招くことが少なくなかった。
「選手時代は多くの人から『チャラチャラしている』とか『サッカーと真摯に向き合っていない』とかって言われて、悔しい思いもしましたね」
だが、そんな森脇だからこそ、語れる北京五輪世代がある。
「僕のことを苦々しく思ったり、誹謗中傷の対象にしたりする人たちに対して、言葉ではなくピッチ上のプレーで反論してきた自負はあります」
どこまでも明るいキャラクターがオブラートとなって分かりづらいが、森脇もまたその内面に、この世代特有の強烈な反骨心を宿しながら、20年のプロキャリアを生き抜いてきた。
原点は、サンフレッチェ広島のユース時代にある。
「あんまり知られていないと思いますけど(笑)、僕ってユースの3大タイトル(日本クラブユース選手権、高円宮杯全日本ユース選手権、Jユースカップ)も獲ったんです。それだけを見れば順風満帆と思われるかもしれませんが、ジュニアユースからユースに上がるときに『FWじゃ上では通用しない』って言われてDFにコンバートされて、最初の挫折を味わいましたし、ユースに上がったら上がったで、年代別の代表がゴロゴロいて、『こいつらと3年間一緒にやるのか』って衝撃も受けましたね」
まるで受験生のように壁に…
1年目のシーズンが終わり、契約交渉の席でクラブの強化部から示されたのは、J2の愛媛FCへのレンタルという名の「事実上の戦力外通告」だった。
「クラブからは、『駒野がいる現状で試合に出るのは難しい、ここは一度レンタルという形で良太を外に出して修行させたい』と言われました。でも当時のレンタル移籍って、今とは違って出たら最後、元のチームに戻れるケースはほとんどなかったんです。要は“片道切符”ですよ。もう俺はこのチームに必要とされていないんだなって、ものすごくショックを受けましたね」
広島で育ち、広島での成功を夢見てプロキャリアをスタートしたばかりの森脇にとって、それは非情とも言える通達だった。打ちひしがれて寮に帰ってからも「しばらくは放心状態だった」という。だが、それでも天性の楽天家は、翌朝には早くも気持ちを切り替える。
「愛媛で頑張ろうって覚悟を決めました。絶対にここから這い上がってやろう、広島というチームを見返してやろうって」
そのためには何が必要なのか、どうすれば成長できるのか。その1点にフォーカスした。だから、同期の前田と髙柳が05年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)のメンバーに選ばれても(髙柳は急性肝炎で出場辞退)、どこか他人事のように受け止めてもいた。
「そこに入っていけるだけの実力がないって自覚していましたし、年代別代表の選手たちを意識はしていましたけど、『今の俺は代表とは無縁だな』って、そんな気持ちがありました」
しかし、06年シーズンに愛媛でレギュラーに定着し、メキメキと力を付けていくうちに、それまでとは異なる感情が沸き上がってくる。08年の北京五輪出場を、現実的な目標として思い描くようになっていったのだ。
少し照れ臭そうに、森脇が当時を振り返る。
「まるで受験生みたいでしたよ。自分の部屋の壁に『北京五輪代表に選ばれる、日本代表に選ばれる』って書いた紙を貼り付けて(笑)」