「森保さん、カッコいいな」おこがましいけど夢は大きく、熱く【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(12)】
もっと振り切れていたら…
もちろん、自分を前面に出すプレーがすべてじゃないことも浦和に来て学びました。ウイングバックもシャドーもやれて、攻撃的にも守備的にも振る舞えて、先発でも途中からでも機能するから、僕はミシャさんに重宝されたんだと思いますが、『チームに合わせすぎてるな』ということは、毎シーズンのように思っていて。本当は、『(興梠)慎三よりも俺が点を取るんだ』ってマインドで、もっと自分らしく仕掛けたかった。だけどチーム内競争が激しいなかで試合に出続けるには、やっぱりいろんな状況に合わせられなくちゃいけない。その行ったり来たりを何周も何周もしていましたね」
そうやって堂々巡りを繰り返した20代後半も、もちろん代表は意識していた。だが、次第に傍観者となっていく自分もどこかで認めていた。
一人掛けのソファーに、梅崎が胡坐をかくように座り直す。
「めちゃめちゃ自問自答して選んだ生き方だったので、大きな後悔はありません。でも、同級生だと本田圭佑、長友佑都、岡ちゃん(岡崎慎司)、下の代だと香川やウッチー(内田篤人)みたいに、代表の主力になった同世代って、やっぱり“振り切って”いるんですよね。彼らの活躍を見て、悔しいなと思いながらも、あきらめに似た気持ちもどこかにあったかもしれない。レッズでも時折自分をさらけ出して、エモーショナルになれる瞬間もあったんですけど、あの頃に『もっと振り切った自分でいたらな』って、考えたりもしますね」
結局、19歳でデビューを飾ったあの日から、代表歴は一度も更新されることがなかった。
そんな梅崎にとって、人生の師とも言える曺貴裁監督との出会いは、大げさではなく僥倖(ぎょうこう)であっただろう。浦和がクラブ史上2度目のACL制覇を成し遂げた17年の年末、品川のホテルで初めて会った日のことを、梅崎は昨日のことのように覚えている。
「湘南ベルマーレとの移籍交渉の場で、いきなりこう言われたんです。『お前、レッズでタイトルを獲ったかもしれないけど、それは本当の喜びか? 本当に泣けたのか? って』。ヤバくないですか? だって、それまで話したことさえなかったんですよ(笑)」
夢は大きく、日本代表監督
「『俺が知っている梅崎は、周りに合わせるような選手じゃない。俺だったらお前を変えられる』とまで言われましたね。そして、『ウチに来てくれ、チームを変えてくれ』とも。痺れますよね(笑)。もう、この人だって思いましたもん。絶対に曺さんのもとでやりたいって」
30歳を過ぎて湘南に加わり、大人のプレーヤーへと変貌を遂げながら、指導者としての自身の未来像を形作っていった梅崎。現役最後のクラブとなった大分でも怪我を繰り返したその苦難のサッカー人生は、先を行った同世代に比べれば、決して輝かしいものではなかったかもしれない。
「北京の後は置いていかれた感が凄かった。香川なんて、それこそU-20のときは僕がスタメンで、途中から真司って感じだったのに、一気に逆転されちゃって」
そう自嘲気味に話す梅崎だが、若くして開花したその才能は紛れもなく本物だった。あの三日三晩の逡巡も、「怪我さえなければ」というプライドの発露であろう。
「若い頃は中田英寿さんに憧れて、『アジア人初のバロンドーラ―になる』ってノートに書いていたのに、そんな夢とか目標がどんどん小さくなっていってしまった。でも、だからこそ――」
勢い込んで、語気が強まる。
「指導者としての夢は大きく持ちたい。カタール・ワールドカップを見て、森保(一)さん、めちゃめちゃカッコいいなって思ったんです。まだ駆け出しの僕が代表監督なんておこがましいけど、それくらい熱いものがないとダメだなって」
現役時代の数々の挫折も、間違いなく人生の肥やしになっている。絶望の隣に希望があることを知った梅崎なら、たとえ倒れても、今度はきっと、笑顔で起き上がるに違いない。
同じく浦和でミシャの薫陶を受けた北京五輪世代は、東京にもいた。彼もまた、引退後は指導者の道へ進み、現在社会人リーグの品川CCでコーチを務めている。北京五輪代表チームに一度も招集されなかった「雑草の中の雑草」、森脇良太は、梅崎とはまた異なる視点で、浦和を、ミシャを、同世代を捉えていた。
<第13回につづく>
※文中敬称略
(企画・編集/YOJI-GEN)
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