同世代で最も早く代表デビューを飾り、海を渡った梅崎司の挫折【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(11)】
嗚咽が、涙が、止まらなかった
1時間に2本のバスにタイミングよく乗り込み、たどり着いた京都サンガF.C.の練習施設、サンガタウン城陽の記者ルームは、間違いなく先ほどの駅前より賑わっていた。この時点でJ1リーグの3位。好調の京都を取材しようと、複数のメディアがクラブハウスに足を運んでいたのだ。
「今日の午前練は攻撃のパートを任されていましたよ」。旧知の番記者が、どこか誇らしげにこちらのお目当ての人物の仕事ぶりを教えてくれた。
しばらくして、順番待ちの応接室がようやく空く。活気づくチームの代弁者のような充実感を滲ませながら扉を開けたのは、京都の新米コーチ、梅崎司――。その晴れやかな表情から、ほんの半年ほど前の「慟哭」を想像するのは難しかった。
昨年11月、プロデビューを飾ったクラブ、大分トリニータから契約満了を告げられるまで、梅崎は2025年シーズンも現役を続けるつもりでいた。
「自分の中でストーリーが出来上がっていましたからね。トライアウトを受ける、でもチームが決まらない、どこかのJクラブに練習参加させてもらう、そこでもう一度チャンスをつかむ、みたいな(笑)。選手としてまだ見せられるものがあるというか、自分の頑張っている姿を見て喜んでくれる人がいるんじゃないかって、そんな欲があったんです」
しかし、いざ契約満了を突きつけられると逡巡(しゅんじゅん)する。続けるべきか、引退すべきか。セコンドがタオルを投げてくれるボクサーとは違い、サッカー選手はみずからその引き際を判断しなくてはならない。妻と将来について話し合い、お世話になった人たちに電話で相談するたびに、涙があふれた。
「嗚咽レベルですよ。もう止まらなかったですね、涙が。苦しかった思い出や、それを仲間と一緒に乗り越えて得た喜び、そして感謝……いろんな感情に心を揺さぶられちゃって、本当にヤバかったですね」
人として大切なものってなんだ?
「何より怪我の不安が大きかった。もう限界かもなって。もちろん華々しいキャリアではないですし、それこそもっとすごい同級生や同世代の選手もたくさんいて、いつもそれに比べたら自分なんて……って思っていましたけど、それでも20年間、どんなときも真摯にサッカーと向き合ってきた人生に悔いはなかった。やり切ったな、自分なりの道は見せられたなって思えたんです」
最後に梅崎の背中を押したのは、18年から在籍した湘南ベルマーレで約2年間師事した曺貴裁の言葉だった。
「あれだけ現役にこだわっていたお前が、初めてこんなに迷っているということは、それが1つの答えなんじゃないか」
梅崎は今、そう言ってそっとタオルを手渡してくれた恩師のもとで、指導者としての第一歩を踏み出している。時を同じくして引退し、サンフレッチェ広島のコーチに就任した1学年上の青山敏弘が、クラブと話し合いながらセカンドキャリアの方向性を決めたのとは対照的に、梅崎には3年ほど前からすでに、引退後は指導者の道に進むという明確なプランがあった。そう考えるようになったのも、縁もゆかりもない京都で第二の人生を歩み始めたのも、曺監督の存在があったからだ。
表情に、直属の上司への絶対的な信頼が分かりやすく浮かび上がる。
「30歳を過ぎて湘南で曺さんと出会って、それまでの固定概念を覆されました。移籍した18年にルヴァンカップで優勝して、J1残留も果たしたチームで、自分もゲームキャプテンを任されたりして、そこにめちゃめちゃ携われた感覚があったんです。もちろん(前所属の)浦和レッズでも、あのクラブ、あのスタジアムでしか得られないエモーショナルな感動はありましたが、人と人との繋がりが深まれば、こんなに喜びの質が変わるんだなって。
『人として大切なものってなんだ?』って、常に問いかけるんです、曺さんは。監督と選手である以前に、1人の人間として向き合ってくれる。そんな監督のもとで、それまでリーダーシップを取るようなタイプじゃなかった僕が、人として変われた。そこからですね、人を育てたいな、選手のマインドを変えて、何かきっかけを与えられる指導者になりたいなって、ちょっとずつ思い始めたんです」