本田圭佑はいかにして変貌を遂げたのか…同世代が推察する転機【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(9)】
のぼせるまで続けたサッカー談義
北京での惨敗と、その直前のオランダリーグ2部降格を経て、「目に見える結果」がいかに重要かを思い知った本田は、直後の08-09シーズン、VVVで2部ながら16得点・14アシストをマーク。チームの優勝と1部昇格の立役者となる。
自身も本田とほぼ同じタイミングで欧州(セルティック)に渡った水野が、確信を持って言う。
「当時からビッグマウスって言われていましたけど、それだけの努力をしていることは、身近にいた人間なら誰でも知っていました。本当にサッカーがめちゃくちゃ好きで、熱い男で、風呂に一緒に入ったりすると、こっちがのぼせるまでずっとサッカーの話をしていましたからね(笑)」
現役時代、サンフレッチェ広島ひと筋を貫いた青山敏弘(現広島トップチームコーチ)は、みずからが選んだキャリアをまったく後悔していない。広島のために生きることに人生の大きな価値を見出した彼は、そもそも本田とは「目指すところが違った」からだ。ただ、そんな青山も欧州組とのメンタル面の“差”は常に感じていたという。
「海外で結果を残した人にしか分からないものって、絶対にあると思う。僕ですらJリーグで優勝してメンタルが大きく成長したと感じたくらいだから、海外で成功すればなおさらでしょう。北京オリンピックの前から本田はオランダでプレーしていて、A代表にも入っていましたが、それだけで大きな違いだったし、彼が向こうでプレーしている期間が長くなればなるほど、その差はどんどん開いていった気がしますね」
蝶を追いかけているうちに、いつの間にか山の頂に登っているのが本物の天才だとすれば、本田はそうではないだろう。途方もない努力と、底知れぬ向上心、そして緻密なキャリア設計によって、彼はカリスマの鎧を身に付けたのだ。
豊田に届いた本田からの思いがけないオファー
今年2月からサガン鳥栖のクラブ・コンダクターとして活動する豊田陽平の言葉は、1学年上の先輩として、星稜高時代の本田を知るからこそ、どこか生々しい。
「だから、嫌だったと思いますよ。昔の自分を知っている奴が近くにいるっていうのは。僕からすれば、昔はこうだったのに、今はこうだとか言うつもりは一切なかったし、できれば(日本代表でも)一緒にやりながら、自分の長所を引き出してもらえたら一番良かったんですけど、そこでソッポを向かれると、僕も不器用なんで、じゃあ分かりましたってなってしまう(苦笑)。もちろんそういうやり方で、しっかりと結果を残してきたことに対してのリスペクトはありますけどね」
自分を変えるためならば、そして、その延長線上に「強い日本代表」の姿が見えるのならば、誤解や批判を招くことも厭わない。それが本田の生き方だった。
もっとも、豊田がこうして包み隠さず本田に対する心情を打ち明けるのは、北京五輪世代も年齢を重ねてかつての刺々しさが消え、その人生が丸みを帯びてきたからだろう。4月に不惑を迎えた豊田が、笑顔でこんなエピソードを語ってくれた。
「去年、僕が怪我をしてツエーゲン金沢で試合に出ていない時期に、本田が立ち上げたEDO ALL UNITED(当時は東京都リーグ1部、現在は関東サッカーリーグ2部)からオファーがあったんです。本田から直接ではなく、共通の先輩を通してですけどね。ただ、そもそも怪我をしていたし、どこまでカテゴリーを落とさせようとしてんねんと(笑)。丁重にお断りしましたけど、そうやって僕にオファーをする時点で、彼の中で少し雪解けしているのかなって」
北京五輪から17年。本田圭佑という、どこか近寄りがたかったカリスマも、今ではピッチと微妙に距離を置きながら、その分厚い鎧を脱ごうとしている。それでも、壁にぶつかりながらも常に上を目指す貪欲なメンタルは、今なお健在だ。細貝が証言する。
「最近もたまに電話で話しますけど、『失敗ばっかりだ』って言っていますよ。でも、そんなのはトライしているから当たり前だろって感じなんです。失敗してもそれを上回る精神力がないと、やっぱりあそこまではなれないんだろうなっていうのは、身近にいて感じています」
しかし、細貝も含めた北京五輪世代が、本田に対して以上に感服するのは、彼らがそろって「下手くそだった」と20代前半の印象を語った正真正銘の“雑草”――長友と岡崎の驚異的とも言える「這い上がる力」だった。
<第10回につづく>
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