本田圭佑はいかにして変貌を遂げたのか…同世代が推察する転機【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(9)】
華がなかったことの裏返し
2024年シーズンを最後に引退し、京都のトップチームコーチとしてセカンドキャリアを歩み始めた梅崎が、その大きな瞳をさらに見開き、そして弾けるように笑ったのは、ひとしきり取材を終えたあとで、「本田圭佑の言葉」を伝えたときだった。
今から17年前の08年夏、北京五輪の直前に、本田はある雑誌のインタビューで、本大会のメンバー選考についてこんな見解を述べていた。
『メンバー的には“地味なメンバー”と思われるんじゃないか、と思う。(柏木)陽介もウメ(梅崎)もいないし、華やかな選手が外れている印象がある』
梅崎の反応はストレートだ。
「マジっすか? えーっ、マジっすか? 初めて聞きました。マジっすか? 華だったんですか、僕(笑)。めっちゃ嬉しいです! ケイスケ・ホンダにそんなこと言ってもらえるなんて(笑)」
北京五輪落選の報を受け、自宅の部屋でまんじりともせず夜を過ごしたという梅崎のショックを、17年の時を経ていくらかやわらげたであろう本田の言葉は、しかし逆説的に捉えれば、当時の本田自身に「華がなかった」ことの裏返しでもあるだろう。
細貝萌、水野晃樹、豊田陽平、青山敏弘――。これまでに訪ねた4人が、それぞれ何らかの形で影響を受け、今も例外なく特別視するのが、本田、長友佑都、岡崎慎司、いずれも1986生まれの“ビッグ3”である。長きにわたって日本サッカー界をけん引してきた彼らこそ、挫折やコンプレックスをはね返し、大成した選手が少なくない北京五輪世代の象徴と言っていい。
本田も、生粋のエリートではない。
ガンバ大阪のジュニアユース時代は、同じ誕生日で同じレフティの家長昭博がトップ下や左サイドハーフを務め、本田は左サイドバックか左サイドハーフのサブだった。“天才”と称された家長が当たり前のようにユースへ引き上げられた一方で、本田はそれが叶わず、石川の星稜高に進学している。
途中交代を余儀なくされたオランダ戦
おそらく梅崎に対する発言も、みずからにまだ「華」が備わっていないことを自覚していたからではなかったか。
ならば、この北京五輪世代のトップランナーは、いかにして、あの他を寄せ付けない圧倒的なオーラを身に付けたのか。若き日の本田を近くで見てきた同世代が、証言する。
1学年上の水野晃樹(現いわてグルージャ盛岡・GM兼強化部長)は、きっかけは北京五輪の3年前にあったと推察する。水野ら1985年生まれが中心となって戦った05年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)のメンバーに選ばれた本田は、開催国・オランダとのグループリーグ初戦にボランチとして先発出場するが、相手のフィジカルに圧倒され、何もできないまま64分に交代を命じられている。
「オランダ戦以降、圭佑はあの大会で1試合もピッチに立てませんでしたからね。たぶん、あそこが転機だったんじゃないかな。それにキックに関しては僕も自信があったので、U-20代表ではあいつに一切セットプレーを蹴らせなかった。ただ、僕もかなりの負けず嫌いですけど、圭佑も相当ですからね(笑)。そこから『もっとやらなきゃ』と練習して、結果的にあれだけのものを手に入れたんだと思います」
“悪魔的”とも形容された左足のキックを除けば、際立った武器はなかったかもしれない。純粋にサッカーがうまい選手なら、それこそ家長をはじめ他にも多くいた。だが、だからこそ本田は意図してマインドを変えた。変えるために、とりもなおさず渡欧を急いだ。
今でもよく連絡を取り合うという同級生の細貝萌(現ザスパ群馬・社長兼GM)は、北京五輪の予選をともに戦っていた頃から、「早く海外に出ろ」と本田がしつこいぐらいにチームメイトに声を掛ける姿を見てきた。
「そもそもフェンロでずっとやり続けるという発想もなかったと思いますよ。フェンロで結果を残して、すぐにでもビッグクラブへ行くイメージを当時から持っていたし、それをちゃんと体現していったのは、本当にすごいなって。圭佑の精神的な強さには、同級生ながら僕も学ぶところがありましたね」