「ピッチで死んでもいい」水野晃樹が送った波乱万丈のキャリア【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(3)】
五輪が終着点ではなかった
「一切ないですね。05年のワールドユースはグループリーグこそ突破しましたが、1勝もできなかった。あのときから海外を意識していましたし、世界と渡り合うには日本にいてはダメだと考えるようになりました。タイミング的にオリンピックと重なりましたけど、セルティックへの移籍話が来たときは、それ以外のことは考えられませんでしたね」
周囲の反応は、「反対しかなかった」という。生死をさまよう病から奇跡的な回復を遂げたオシムもまた、その1人だった。
「オシムさんには、『(Jリーグと比べて)1段階、いや3段階はレベルが上がるから、難しい挑戦になるぞ』って言われましたよ。ただ、オリンピックのメンバーから落選したこと自体は、まったく気にしていなかった。なぜなら、目標がそこではなかったから。世界で通用する選手になることが目標でしたし、仮にオリンピックで活躍したとしても、海外移籍のオファーが届く保証はありませんからね。まあ、悔しい気持ちも多少はありましたけど、そこが終着点ではなかったので」
北京五輪を戦う仲間たちの姿は映像を通して見てはいたが、そこに深く感情移入することもなかった。
「結局、勝てませんでしたから(3戦全敗)、瞬間的には『自分がいたらな』と考えたりもしましたけど、なんて言うのかな……本当にもうその先へ目を向けていたので、どちらかと言えば第三者的な目線で見ていましたね」
北京五輪落選は、水野にとって挫折ではなかった。しかし、彼が見据えていた“その先”での挑戦は想像以上に厳しいものとなる。セルティック2年目の08-09シーズンには、すでにチームで絶対的な地位を築いていた中村俊輔からのパスを受けて移籍後初ゴールも挙げたが、各国の代表クラスがひしめく環境では出番が限られ、さらに2度にわたる膝の手術による離脱もあって、在籍2年半の公式戦出場はわずか12試合にとどまった。
「世間的には失敗だったって散々言われましたけど(苦笑)、僕自身は一切そう思っていません。試合に出ればある程度やれると感じていたし、とくに武器である一瞬のスピードは十分に通用していましたから。ただ、自国で育ったU-21の選手を3人ベンチに入れなくてはならないルールもあって、試合に出るまでが難しかった」
本田に対して燃やした強い対抗心
「でも、最初から成功するって分かる挑戦なんてないじゃないですか。あのとき、海外にチャレンジしたことにまったく後悔はありませんし、チャレンジしないことのほうが、僕は失敗だと思うので。フィジカルや判断スピードなど、向こうに行ったからこそ、自分に足りない部分も分かりましたからね」
「とにかく、負けず嫌い」。自らの性格をそう分析する水野は、かつて同世代に抱いていたライバル心も包み隠さず披瀝する。とりわけ1学年下で、ほぼ同じタイミングで欧州(オランダのVVVフェンロ)へと渡った本田圭佑には、強い対抗心を燃やしていたようだ。
「同世代で意識していたのは、DFなら水本、アタッカーなら家長(昭博)ですね。当時の世代別代表だと、アキ(家長)は途中からピッチに立つことが多かったんですが、出てきたらまずはあいつを探しましたね。
それから、高卒(星稜高)で名古屋グランパスに入って、すぐにトップチームに定着した圭佑。サイドで言えば圭佑が左で僕が右なので、試合でマッチアップする機会も多かったんですが、1つしか歳は変わらないのに『この生意気な小僧が』って、そう思いながらプレーしていましたよ(笑)。メディアには圭佑がバーンって出るけど、プレーでは絶対に負けねえからなって」
そんな大の負けず嫌いの心を折ってしまうようなアクシデントが起こるのは、10年夏に日本へ戻り、当時J2の柏レイソルで再起を期していた矢先のことだった。
<第4回につづく>
※文中敬称略
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