「ピッチで死んでもいい」水野晃樹が送った波乱万丈のキャリア【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(3)】
サッカー界に新しい風を吹き込む
若かりし日、ともにアジア最終予選を戦い、北京五輪の出場権を勝ち取った1つ年下の細貝萌である。
その日、栃木SCのホームスタジアムで行われていたのは、Jリーグ選手協会主催のトライアウトだった。24年シーズン限りで現役を退き、当時すでにいわてグルージャ盛岡のGM兼強化部長に就任していた水野、ザスパ群馬の社長代行兼GM(現社長兼GM)への就任が内定していた細貝は、いずれもチーム強化を預かる身としてこの場に足を運んでいたのだ。
「萌は『マジでヤバいです、超忙しいです』って言っていましたけど、僕も休みがまったくないくらい忙しい(苦笑)。でも、日々新たな発見があって、人としての成長にもつながっているなって実感もあります。萌もそうですけど、僕らの世代がクラブのフロントに入ってチームを運営するって、サッカー界に新しい風を吹き込むという意味でも、きっと価値があることだと思うんです」
盛岡駅から在来線に揺られて2駅。こぢんまりとした岩手飯岡駅を背に、4月初旬のひんやりとした風を感じながら15分ほど歩いた場所に、こちらもうっかりすると見過ごしてしまうような、こぢんまりとした岩手のクラブ事務所はあった。
その一室で、慌ただしくも充実したセカンドキャリアを熱く語る水野の両目は、赤く充血していた。翼状片という目の疾患との付き合いは、もう10年ほども続いている。
「ずっとぼやけて見えていて、正直昨シーズンはセットプレーで蹴るときも、止まっているボールとの距離感が合わなくて、結構やりづらかったんです」
手術をすれば治るが、半年ほどは激しい運動ができない。だから、適切な治療は施しながらも手術には踏み切らなかった。
「怪我や病気を理由にサッカーを辞めるのは嫌だったんです。若い頃からずっと『ピッチで死んでもいいや』って、そう思いながらプレーしてきましたからね」
運命を変えた欧州移籍
「膝の手術5回、契約満了6回、紆余曲折、波乱万丈」
21年間の現役生活を振り返るとき、これ以上に的を射た表現はないと思えるほど、そのサッカー人生は起伏に富んでいた。
清水商業高から04年に加入したジェフユナイテッド市原(当時/現千葉)では、入団2年目にして早くもチームの中心となり、翌年にはオランダで行われたワールドユース(現U-20ワールドカップ)にも出場。千葉から日本代表の監督に転身したイビチャ・オシムの推挙によって、07年3月には21歳で日本代表デビューを飾る。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
「攻撃のときは全部ボールをくれって感じでしたね。ジェフで活躍できたのは、縦の突破とクロスを評価してくれたオシムさんが、本当に僕を生かすためのシステムで戦ってくれたから。チームメイトにも『後ろの心配はしなくていい』って言われていました。正直、代表に選ばれたのも(06年7月に)オシムさんが監督になったからだと思っています」
同じく千葉でオシムの薫陶を受けた“オシムチルドレン”の水本裕貴とともに、水野は08年の北京五輪をめざすU-22日本代表――反町ジャパンの主力として、厳しい予選を戦い抜いた。アジア最終予選、敵地ドーハでカタールに敗れて一時グループ2位に転落。直後の07年11月には恩師オシムが脳梗塞に倒れるなど、精神的に追い込まれた時期を乗り越え、北京への切符を勝ち取った。当然、誰もが本大会でもチームの中心を担うだろうと考えていた。
しかし、北京五輪がおよそ半年後に迫った08年1月、スコットランドの名門セルティックへの移籍が、運命を変える。移籍から約4カ月、一度もトップチームのピッチに立てなかった水野を、五輪代表監督の反町康治は18人のメンバーリストから除外した。メンバー発表前、指揮官はある雑誌のインタビューでこう話している。
『海外移籍は自分の責任で決めた、自分の判断。メンバー選出の際に“自業自得”になるかもしれない』