去り行く北京五輪世代の矜持と未来

「ピッチで死んでもいい」水野晃樹が送った波乱万丈のキャリア【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(3)】

吉田治良

5度の膝の手術、6度の契約満了を経験した現役生活は、まさに紆余曲折、波乱万丈だった 【(C)J.LEAGUE】

サッカー界に新しい風を吹き込む

 北関東特有の底冷えする寒さもなく、比較的暖かかった2024年12月11日、水野晃樹は栃木県宇都宮市にあるカンセキスタジアムとちぎで懐かしい人物にばったり出くわした。

 若かりし日、ともにアジア最終予選を戦い、北京五輪の出場権を勝ち取った1つ年下の細貝萌である。

 その日、栃木SCのホームスタジアムで行われていたのは、Jリーグ選手協会主催のトライアウトだった。24年シーズン限りで現役を退き、当時すでにいわてグルージャ盛岡のGM兼強化部長に就任していた水野、ザスパ群馬の社長代行兼GM(現社長兼GM)への就任が内定していた細貝は、いずれもチーム強化を預かる身としてこの場に足を運んでいたのだ。

「萌は『マジでヤバいです、超忙しいです』って言っていましたけど、僕も休みがまったくないくらい忙しい(苦笑)。でも、日々新たな発見があって、人としての成長にもつながっているなって実感もあります。萌もそうですけど、僕らの世代がクラブのフロントに入ってチームを運営するって、サッカー界に新しい風を吹き込むという意味でも、きっと価値があることだと思うんです」

 盛岡駅から在来線に揺られて2駅。こぢんまりとした岩手飯岡駅を背に、4月初旬のひんやりとした風を感じながら15分ほど歩いた場所に、こちらもうっかりすると見過ごしてしまうような、こぢんまりとした岩手のクラブ事務所はあった。

 その一室で、慌ただしくも充実したセカンドキャリアを熱く語る水野の両目は、赤く充血していた。翼状片という目の疾患との付き合いは、もう10年ほども続いている。

「ずっとぼやけて見えていて、正直昨シーズンはセットプレーで蹴るときも、止まっているボールとの距離感が合わなくて、結構やりづらかったんです」

 手術をすれば治るが、半年ほどは激しい運動ができない。だから、適切な治療は施しながらも手術には踏み切らなかった。

「怪我や病気を理由にサッカーを辞めるのは嫌だったんです。若い頃からずっと『ピッチで死んでもいいや』って、そう思いながらプレーしてきましたからね」

運命を変えた欧州移籍

水野がライバル視していたという千葉時代の同期・水本。23年1月に引退し、現在は相模原のコーチを務める 【写真:アフロ】

 クールでダンディな雰囲気に似合わず、サッカーに対してどこまでも情熱的な水野は、昨年9月の引退会見で、自身のキャリアをこんな言葉で総括している。

「膝の手術5回、契約満了6回、紆余曲折、波乱万丈」

 21年間の現役生活を振り返るとき、これ以上に的を射た表現はないと思えるほど、そのサッカー人生は起伏に富んでいた。

 清水商業高から04年に加入したジェフユナイテッド市原(当時/現千葉)では、入団2年目にして早くもチームの中心となり、翌年にはオランダで行われたワールドユース(現U-20ワールドカップ)にも出場。千葉から日本代表の監督に転身したイビチャ・オシムの推挙によって、07年3月には21歳で日本代表デビューを飾る。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

「攻撃のときは全部ボールをくれって感じでしたね。ジェフで活躍できたのは、縦の突破とクロスを評価してくれたオシムさんが、本当に僕を生かすためのシステムで戦ってくれたから。チームメイトにも『後ろの心配はしなくていい』って言われていました。正直、代表に選ばれたのも(06年7月に)オシムさんが監督になったからだと思っています」

 同じく千葉でオシムの薫陶を受けた“オシムチルドレン”の水本裕貴とともに、水野は08年の北京五輪をめざすU-22日本代表――反町ジャパンの主力として、厳しい予選を戦い抜いた。アジア最終予選、敵地ドーハでカタールに敗れて一時グループ2位に転落。直後の07年11月には恩師オシムが脳梗塞に倒れるなど、精神的に追い込まれた時期を乗り越え、北京への切符を勝ち取った。当然、誰もが本大会でもチームの中心を担うだろうと考えていた。

 しかし、北京五輪がおよそ半年後に迫った08年1月、スコットランドの名門セルティックへの移籍が、運命を変える。移籍から約4カ月、一度もトップチームのピッチに立てなかった水野を、五輪代表監督の反町康治は18人のメンバーリストから除外した。メンバー発表前、指揮官はある雑誌のインタビューでこう話している。

『海外移籍は自分の責任で決めた、自分の判断。メンバー選出の際に“自業自得”になるかもしれない』

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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