あの3人への悔しさや劣等感こそセカンドキャリアの原動力【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(2)】
いつでも飛行機に乗れるように
キャプテンの長谷部誠とサイドバックの酒井高徳が負傷を抱え、万全の状態ではなかったのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、複数ポジションをこなせるマルチな細貝萌だった。
「誰か1人欠けることがあれば僕を呼ぶって、最初にその連絡を受け取ったときは奥さんと伊勢神宮にいて完全にオフモード。そこから一度リセットした体を急ピッチで仕上げましたよ。なにしろ毎日のように原博実さん(日本サッカー協会技術委員長/当時)から電話がかかってくるんですから。『今日の長谷部はこういうリハビリをした』『高徳の状況はこうだった』と、もう逐一(笑)。いつでも飛行機に乗れる準備だけはしておくようにと言われていましたね」
当時の心境を、細貝は「めちゃめちゃ複雑でした」と振り返る。W杯に出たい気持ちはもちろんあったが、しかし自分が呼ばれることは、誰かが離脱することを意味していた。
「結局、現在の23人で戦うという結論が出たのは、メンバー登録期限のぎりぎりでした。それはそれで素晴らしいことだったんですが、何が大変だったかっていうと、そこからの新シーズンに向けたコンディショニング。普段のルーティンとはまったく違うオフを過ごしましたからね」
迎えたヘルタ・ベルリンでの2年目、2014-15シーズンの細貝は、監督交代の影響もあったとはいえ、怪我も重なって終盤戦で定位置を失っている。
当時“史上最強”とも謳われたザックジャパンは、しかしブラジルの地で一敗地にまみれた。そこに自分がいたら……そう思ったことはないかと水を向けてみると、細貝は笑いながらこう返す。
「まったく思わなかったですね。自分がいたらもっとひどい負け方をしていたかもしれない(笑)。同世代が中心のチームで、僕もちょっと前までその中にいたので、彼らがどれだけサッカー選手としてこのワールドカップで成功したいかっていう想いも知っていましたからね。出られなかった僕以上に、出て結果を出せなかった彼らのほうが、よっぽど悔しかったはずなんです」
こんなにうまい日本人がいるのか
「前十字靭帯を断裂して長期離脱をするようなこともなかったですからね。あとは、こうして38歳まで現役を続けられたのも、環境がすべてだったと思います。それはプレーする場所もそうですが、誰と一緒に仕事をしてきたか、誰とどう刺激し合ってきたか、それがすべてだと。あの時期に代表にいられて、あのメンバーと刺激し合えたことが、サッカー選手として生き残ってこられた大きな理由の1つでしょうね」
北京五輪世代に抱いた強烈なライバル心が、やがてコンプレックスへと変容し、それが原動力となって現在の自分を形作っていると、細貝は正直な心の内を吐露する。
「僕自身はずっとエリートと言われてきたんです。U-15から途切れることなく年代別の日本代表に呼ばれてきましたからね。それで同世代、特に同い年の選手には絶対に負けたくないって、全員をライバル視していたんですけど、たとえば家長(昭博)なんかはU-15の日本代表合宿で初めて会ったときから、『こんなにサッカーがうまい日本人がいるんだ』と驚かされましたし、国際大会で普通に通用している彼と、何もできなかった自分を比べて本当に情けなくなったりもしました。
それ以上に劣等感を覚えたのは、ユース年代の代表に僕や家長なんかよりも後になって入ってきた(本田)圭佑、(長友)佑都、岡ちゃん(岡崎慎司)の3人にあっという間に追い抜かれ、いつの間にか遠い存在になってしまったことなんです。日本代表として30試合も出場できたのは誇らしいことですが、彼らは比べ物にならないほどのキャップ数を重ねていった。佑都なんてまだ現役の代表ですからね(笑)」