W杯を逃したあの夏、細貝萌を苦しめたブラジルからの電話【去り行く北京五輪世代の矜持と未来(1)】
アメリカ、ナイジェリア、オランダと同居した本大会では3戦全敗に終わり、一部メディアに「谷底世代」などと揶揄(やゆ)されながら、しかしその後、本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司らを筆頭に、所属クラブや日本代表の中核を担うなど大成した選手が少なくなかったからだ。
細貝萌、水野晃樹、豊田陽平、青山敏弘、梅崎司、森脇良太、興梠慎三――。当連載では、奇しくも2024年シーズン限りでそろって引退した北京五輪世代の7人のもとを訪ね、この世代を突き動かした原動力を探るとともに、すでに第一歩を踏み出したセカンドキャリアへの想いを伝える。
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引退後、そのままJクラブの社長に
鈍色の雲に覆われ、しんと静まり返った前橋駅からバスに揺られること20分。まだ雪化粧をした赤城山から吹きつける有名な赤城おろしのたどり着く先に、昨年5月に竣工したばかりのザスパ群馬の専用練習施設「GCCザスパーク」はあった。
J3では、いやJリーグでも屈指の練習施設内のクラブハウスに現れた細貝萌は、天然芝のグラウンドにうっすらと残った雪まで溶かしてしまいそうな笑顔をたたえながら、右手を差し出してくれた。
「もう、やらなきゃいけないことがたくさんあるんですよ(笑)。このGCCザスパークを維持するのも、それこそ結構な額の電気代や天然芝の管理費なんかが毎月かかりますから、簡単じゃないんです。そこは経営者として、しっかり見ていかなくてはなりません」
2024年シーズン限りで引退した細貝は、現役最後のクラブであり、生まれ故郷のクラブでもあるザスパ群馬の社長代行兼GM(4月25日から社長兼GM)に就任していた。引退後、そのままJクラブの社長に転身するケースは稀だろう。昨季J3に降格したばかりのチームを、今度はフロントとして立て直すべく、新米社長は日々奮闘している。
これだけのタレントが揃いながら…
「今、あらためて思い返しても、やっぱりすごく刺激的な世代でしたよね。僕自身にとっても、オリンピックに出て、世界のレベルを肌で感じ取れたのは非常に価値のあることでしたし、間違いなくその後の人生につながる大会だった。もちろん本大会は3戦全敗に終わり、世間的には“結果を出せない世代”なんて、当時は言われましたけどね」
結果を出せない世代――。そんなありがたくないレッテルを貼られたのも、致し方なかったのかもしれない。
1985年生まれ組の平山相太、カレン・ロバート、梶山陽平、李忠成、86年組の本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司、家長昭博、西川周作、87年組の柏木陽介、槙野智章、森重真人、内田篤人(88年早生まれ)、そして88年組の吉田麻也、森本貴幸、香川真司(89年早生まれ)……。今回の旅で訪ねた7人を除いても、これだけのタレントがそろった世代だった。
しかし、彼らは勝てなかった。
85年組が中心となった05年のオランダ・ワールドユース(現U-20ワールドカップ)はグループリーグで2分け1敗。史上最も少ない勝ち点で決勝トーナメントに進出したが、ラウンド16でモロッコに敗れた。
06年8月に反町康治を監督に迎え、北京五輪を目指すU-21日本代表が立ち上げられてからも、苦難の連続だった。アジア最終予選では一時カタールに首位の座を明け渡し、ホームの最終戦でサウジアラビアに引き分けて辛くも4大会連続の五輪切符を勝ち取ったが、当時の川淵三郎キャプテンは、「失敗を恐れない積極性がない」と、薄氷を踏むような戦いを続けるチームに幾度となく苦言を呈した。