米国で頭をよぎった「ここは違う」 福留孝介氏、NPB復帰の理由と最後の10年の意義
36歳を迎える2013年、再び日本球界へ。阪神でベテランとしての存在感を放ち、古巣中日で現役生活を終えた。NPBでの“第二章”は実に10年間に及ぶ。日本に戻る決断に至った思いや自身に起きた変化、復帰後のキャリアの意義を語った。(取材日:8月12日)
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オファーに驚き「そんな評価してもらえるの?」
ドラゴンズが宣言残留も容認すると言ってくれていたので、であれば外の評価も聞いてみようと。せっかくの野球人生だと思い、いろんな球団と話をさせてもらいました。アメリカの野球にすごい興味があったかと言うと、そうじゃなかったんですが、いくつか話をもらったり、(MLB球団関係者と)実際にお会いして話をしたりして。その中で、一番の評価をしてもらったのがアメリカでした。
――最もいい評価をされたということ以外に、メジャー挑戦の後押しになったことはありますか?
もうひとつは、FAの年(2007年)に右肘の手術でアメリカに行ったんです。7月くらいから、2カ月くらいいたかな。手術して、そのままリハビリして。その時に、ドジャースにいた斎藤隆さんの試合を何度か観に行かせてもらって、日本とは違う雰囲気もいいなと思ったのを覚えています。
――最終的に選んだのはカブス。4年総額4800万ドル(当時のレートで約53億円)の大型契約でした。
自分でもびっくりするくらいの…。「そんな評価してもらえるの?」と。縁も何もなかったんですけど、すごく熱心にきてくれて。環境面の説明もすごく丁寧にしてくれました。日本人のスタッフがいたのも大きくて、安心感があったのかなぁと。
――当時、所属する中日では絶対的な立場を築いていました。メジャー挑戦の決断には覚悟も必要だったのでは?
チャレンジするなら、ここしかないと。もう年齢も30でしたし。ドラゴンズを出るんだったら、やっぱり自分という野球選手を一番評価してくれた場所にいこうと思いました。
――開幕戦での9回同点3ランという鮮烈なデビューから始まり、結果的にアメリカで5年間プレーされました。
ずっと試行錯誤していましたね。どこまでいっても野球選手である以上、やっぱり上手くなりたいと思う。上手くなるためにはどうしたらいいんだろうっていうのが、ずっと続いていたという感じですね。
――渡米5年目の2012年は、ホワイトソックスをDFAとなり、シーズン後半はヤンキース傘下3Aでプレー。NPB復帰を考えた瞬間はありましたか?
そんなに考えなかったんですが、3Aを経験した時に「35歳でチャレンジする場所かな?」って思ったことはありました。マイナーでは実力だけじゃなくて、若い選手が優先される。そうすると、自分がいくら元気でも、出る場所がなくなってくる。もっと自分が若ければ、競争に勝ってやるぞと思うんでしょうが、年齢でいろんなことを決められるというのは、どうなんだろうと。そういうことが一瞬でも頭をよぎるということは、自分でも「ここは違う」と思っていたのかもしれません。もちろんだからと言って手を抜くことはないし、一生懸命やっているからこその葛藤のようなものは正直ありました。当時3Aで同じチームだった五十嵐(亮太氏)と、ベンチでそんな話をしたこともありましたね。