【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

クラブ主導の署名活動と「3回優勝したら」発言 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(20)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

※リンク先は外部サイトの場合があります

サンフレッチェ広島のレジェンド、森﨑和幸(左)と森﨑浩司。2012年のJ1初優勝と松井一實市長による「問題発言」について語ってもらった 【宇都宮徹壱】

2012年J1初制覇と「遠ざけられたゴール」

 サッカーファンに質問したい。プロフットボーラーで「KAZU(カズ)」「KOJI(コージ)」といえば、誰を思い浮かべるだろうか? 前者は間違いなく三浦知良、後者は国内8クラブでプレーした山瀬功治と答える人が多いのではないか。

 けれども、これがサンフレッチェ広島サポーターとなると、森﨑和幸と森﨑浩司。異論は認められない。双子の兄である和幸は、J1・J2で504試合に出場して22ゴール。弟の浩司は、同じく335試合に出場して65ゴール。和幸は20シーズン、浩司は17シーズン、プロキャリアのすべてをサンフレッチェに捧げたバンディエラであった。

 そんなクラブのレジェンドたちに、兄弟揃ってインタビューする機会を得た。双子ということで間違えないか心配したが、和幸は黒髪、浩司は金髪に染めていたので密かに安堵する。先に現役を終えたのは浩司のほうで(2016年)、その後はクラブの初代アンバサダーに就任。2年後の2018年に和幸もスパイクを脱ぎ、今はクラブリレーションズマネージャーとして活躍している(今年6月に育成部に移動)。

 そんな彼らに、ぜひ確認したいことがあった。サンフレッチェがJ1初制覇を果たした2012年、広島市長の松井一實が口にした「3度優勝したらスタジアム建設を検討しなければならない」という発言。果たして彼らは、どう受け止めたのだろうか。

 兄の和幸は、なんとかポジティブに捉えようとしていたようだ。

「いろいろ問題があって、すぐに(スタジアム建設)とはいかないことは理解していました。ただ、僕らも30歳を超えていたので、1日でも早く作ってほしいと思っていたのも事実。(発言そのものは)残念ではありましたが、逆に『3回優勝したら』というモチベーションにはなりましたね。もっとも、優勝経験もなかったクラブが、すぐにあと2回優勝できるとは、ちょっと想像できなかったですけど」

 弟の浩司は、違った捉え方をしていたようだ。

「初優勝してあれだけ(メディアに)取り上げられて、37万人もの署名が集まったのに、スタジアムを作るハードルは高いんだなと思いました。当時のサンフレッチェは、予算的にも売上的にも(J1で)下から数えた方が早いくらい。そんなクラブがJ1で優勝することが、どれだけ大変なことかわかっていましたので『あと2回優勝しないといけないのか』と考えると、なんだか気が遠くなったことを覚えています」

J1初優勝と「START FOR 夢スタジアムHIROSHIMA」

2012年に初めてJ1を制したサンフレッチェ広島。この歴史的快挙が、その後の新スタジアム建設運動への機運を高めていくこととなる 【写真は共同】

 サンフレッチェのJ1初優勝が決まったのは11月24日のこと。ビッグアーチでのセレッソ大阪戦に4-1で勝利し、2位のベガルタ仙台が敗れたため、ホームで待望の優勝シャーレを掲げることとなった。その日から遡ること2カ月前の9月11日、クラブはある重要な発表を行っている。以下、9月12日の毎日新聞広島版より引用。

《県サッカー協会の小城得達会長、サンフレッチェ広島の本谷祐一社長、サンフレッチェ広島後援会の加藤義明会長が11日、中区で記者会見し、サンフレッチェ広島のホームとなる新しいサッカースタジアム建設を早期に実現するため、署名活動への協力を呼びかけた。機運を高めるため、スタジアム完成時のイメージパースやキャッチフレーズ「START FOR 夢スタジアム HIROSHIMA」も公表した。(後略)》

 サンフレッチェ広島が、クラブとして新スタジアム建設のために具体的に行動を起こすのは、これが初めてのことであった。

 この重要な決断を下したのは、当時社長だった本谷。森保一の監督への抜てき、サンフレッチェのJ1初優勝、そして99%減資による経営の健全化。今のクラブの繁栄につながる、これらのトピックスは、いずれも本谷社長時代のものだった。そして新スタジアム建設についても、本谷はクラブとして動く断を下している。

「最初に声をかけてくれたのが、後援会会長だった加藤さんでした。7月くらいに『今年は森保が監督になって成績もいい。新スタジアムに関してアピールするチャンスではないか』と。県協会会長の小城さんにも確認して、それから森保に伝えたら『やりましょう!』と喜んでいましたね。当時の中心選手だった佐藤寿人、森﨑兄弟、青山敏弘、塩谷司といった面々が、街頭に出て署名を呼びかけました」

 本谷が語るように、きっかけを作ったのは加藤だった。だが、具体的に署名活動を提案したのは、オールフォーヒロシマの設立メンバーで、2011年に市議会議員となっていた石橋竜史。当人はこのように証言する。

「議員になって以降、新スタジアム建設を議会で訴えてきたましたが、松井(一實)市長は反応なし。募金も考えたんですが、話が進まなかったら集めたお金を返す羽目になる。やるなら署名だろうと思って本谷社長にご提案したら、ふたつ返事でOKをいただきました。すぐに建設会社の同志に頼んで、市民球場跡地に建設されたパースを作ってもらい、署名活動の際に役立ててもらいました」

 およそ3カ月の署名活動で、36万9638筆もの署名が集まり、2013年1月21日に県と市に提出された。数字だけをみれば、当時の広島市の人口(117万6000人)の約3割に相当するが、署名したのは市民ばかりではなかった。アウェイで広島を訪れていた、対戦相手のサポーターの中にも、署名に協力した人は少なからずいたという。

 こうなると市長の松井も、冷淡な姿勢のままではいかなくなった。1月24日、松井はスタジアムの検討協議会を開催することを宣言。県知事の湯崎英彦、そして商工会議所会頭の深山英樹にも、参加を呼びかけることとなる。そしてこの年の6月6日、第1回となる「サッカースタジアム検討協議会」が開催された。

1/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント