【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

新市長へのプレゼンと旧市民球場跡地問題のその後 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(19)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

※リンク先は外部サイトの場合があります

広島市民球場跡地にて署名活動するオールフォーヒロシマのメンバー。4年にわたる活動の間に、広島市長は秋葉忠利から松井一實に代わった 【提供:ALL FOR HIROSHIMA】

新市長となった松井一實とは何者か?

 東日本大震災があった年として、多くの日本人に記憶される2011年。この年の4月10日に統一地方選挙が行われ、広島市議会議員選挙と広島市長選挙が実施されている。新しい市長に当選したのは、自民党と公明党の推薦を受けた松井一實。それまで3期、市長を務めていた秋葉忠利が立候補しなかったため、12年ぶりの市長交代となった。

 松井は1953年生まれで広島市出身。京都大学法学部卒業後、当時の厚生省(現・厚生労働省)に入省し、2011年まで官僚としての職務をまっとうしている。一方、前任の秋葉は1942年生まれで東京都出身。東京大学大学院、マサチューセッツ工科大学で数学を学び、国会議員(社会党〜社会民主党)を経て市長となった。

 県外出身者から地元出身者へ、元学者から元官僚へ、そして革新から保守へ。新しい市長は、前任者と出自もキャリアも政治的スタンスも真逆であった。それゆえ、旧市民球場跡地に新スタジアムが建設されることを夢見た人々は、新市長の松井に密やかな期待感を抱いた。が、そうした淡い期待は、あっさり裏切られることとなる。

 就任した年の10月、松井は「旧広島市民球場跡地委員会」を設置している。だが、市民や議会の声に耳を傾けながらも、最終的には「緑地広場機能」を優先。さらに新スタジアム建設地については、旧市民球場跡地ではなく広島みなと公園がある宇品を強く推したため、サンフレッチェ広島との平行線はぎりぎりまで続くこととなった。

 そんな松井市長のスタジアムに関する発言で、明らかな「失言」と思われるものが少なくとも2つあった。すなわち、2012年の「3回優勝したらスタジアムを考える」発言。そして2013年の「(サンフレッチェが優勝するとスタジアム問題が切迫するから)2位でいい」発言である。

 このうち後者については、12月3日とはっきりしているのだが、前者については当時の報道を探しても日付を特定できなかった。おそらく、メディア不在の中での「内輪の発言」だったと思われる。果たして、松井市長の真意はどこにあったのだろうか。

 広島市の広報を通じて確認を求めたところ《クラブやファンを始め、広島のサッカー界を盛り上げるための発言であった。》という回答が文書で送られてきた。

 今でこそサンフレッチェが勝利したら、クラブ会長の久保允誉と喜びあうようになった松井。だが、市長就任からしばらくの間は、新スタジアム建設を熱望する人々にとって、まさにラスボス感満載の敵役のような存在感であり続けた。

フォーラムのプレゼンに関心を示した新市長

KOPとまたろが中心となって作成された「旧市民球場から始める広島~プロジェクト9~」。その最終版は新市長へのプレゼンで使用された 【提供:ALL FOR HIROSHIMA】

 2011年5月20日、オールフォーヒロシマは「旧市民球場から始める広島~プロジェクト9~」を携えて、新市長へのプレゼンテーションに挑むこととなった。

 ただし、この時の市長訪問の主体は(旧)広島市民球場フォーラム(以下、フォーラム)。プレゼンの機会をセッティングしたのは「旧広島市民球場の歴史と未来を守る会」(以下、守る会)代表の土屋時子であった。

「土屋さんの目的は、新しい市長に(旧市民球場跡地問題について)独断で決めないでほしいという要望を伝えることでした。われわれとしては、カウンターとなる案を提案したかった。それも集大成となるようなものを作ろうという話になりました」

 またろが語る、集大成という言葉の裏側に「撤退戦」というニュアンスを感じ取るのは、私だけであろうか。当日の様子については、5月21日の中国新聞から引用しよう。

《広島市の旧市民球場(中区)跡地利用計画に反対する複数の市民団体の10人が20日、市役所に松井一実市長を訪ね、緑地広場を中心にした跡地利用計画の見直しを求めた。/「旧広島市民球場の歴史と未来を守る会」の土屋時子代表が「計画は民意が反映されていない」と批判。解体が進む旧球場の活用を要請した。松井市長は「みなさんの思いが的を射ている部分はある」と答えたが、旧球場の活用について具体的な言及はなかった。(後略)》

 市長と面会したのは、またろと松原友美、そして守る会の土屋である。与えられた時間は60分。最初の20分は土屋、次の20分でまたろがプレゼンを行い、残り20分で懇談となった。市長の松井は、当時は珍しかったiPadを使ったプレゼンには興味を示したようで「そういう考えをする人間が、市役所の中にいないんだよな」などと発言。同席していた市役所職員に、意味ありげな視線を送る場面もあったという。

 しかし、松井の結論は「市長が替わったからといって、市が決めてきたことを覆すことはできない」「(旧市民球場は)このまま解体するほかない」――。オールフォーヒロシマによる、新市長への渾身のプレゼンテーションは、あっけなく終わった。

「今でも鮮明に覚えているんです。プレゼンが終わったあと、市民球場近くにあった(喫茶店の)マリーナに立ち寄ったんです」と、またろ。そしてこう続ける。

「マスターの中川(公一郎)さんに、何も変えられなかったことをお詫びしました。中川さんは『またろさんは頑張ってくれました。嬉しかったですよ』と言ってくださって。議員になったばかりの石橋くんも来ていて、市民球場の解体は既定路線であることを教えてくれました。取り壊されるスタンドを見ていると、悲しさが込み上げてきて、自然と涙がこぼれましたね。松原さんも泣いていました。悔し涙だったと思います」

 この市長へのプレゼンこそ、オールフォーヒロシマとしての最大にして最後の仕事であり、この日を境に彼ら彼女らの活動は休眠状態に入っていく。そして球場解体後から、ひろしまゲートパークのオープンまで、11年もの歳月が流れることとなった。

1/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント