【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

言い出しっぺたちの戦略変更と「プロジェクト9」 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(18)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

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オールフォーヒロシマによる、旧広島市民球場跡地活用を訴えるチラシと署名用紙。2010年3月には2万3295筆の署名と嘆願書を市に提出 【提供:ALL FOR HIROSHIMA】

「しんどい思い」を引き受けた女性デザイナー

 サンフレッチェ広島のスタジアムDJだった石橋竜史、そしてTSS(テレビ新広島)のディレクターで気象予報士だった波田健一。両者が意気投合して生まれた、オールフォーヒロシマがアクティブな活動を続けていたのは、2008年から11年までの4年間である。

 この4年間の活動記録、実はネット上にあまり残っていない。ちょうどこの時代、インターネットをめぐる環境が、急速に変化していたことが一因である。

 彼らは団体を立ち上げた直後から、独自のホームページを立ち上げていた。そしてmixi(ミクシィ)というコミュニティサービスで連絡を取り合い、仲間集めには2ちゃんねるや『スポーツナビ+』ブログが活用された。2008年当時、TwitterやYouTubeはすでに存在していたものの、まだ一般には普及していなかった。

 やがてmixiや掲示板は廃れていき、サーバーの停止によってホームページや『スポーツナビ+』ブログも消滅。オールフォーヒロシマの活動は、時代の波に埋もれていってしまう。そんな中、当時のデータをきちんと残している元メンバーも存在した。その代表格といえるのが、デザイナーの松原友美である。

「サーバーを管理していた方は別にいたんですが、私が作ったものに関しては、いちおうデータは全部残すようにしています。あと、当時の資料なんかもけっこう残っていますので、必要なものがあればおっしゃってください」

 オンライン画面の向こう側で、着物姿の彼女はそう語っていた。1977年生まれで出身は山口。『キャプテン翼』でサッカーに目覚め、広島で仕事をするようになった時にサンフレッチェと出会った。そして2008年の秋、印刷物やウェブのデザイナーを募集していた、オールフォーヒロシマに志願して加わっている。

 もっとも彼女の場合、デザインだけを担当していたわけではない。設立メンバーの波田いわく「活動の過程でいろいろなことがあったんですが、彼女には一番しんどい思いをさせてしまいました。巻き込んでしまって、申し訳ないと今でも思っています」。

 実際のところ、署名活動や警察へのデモの届け出などは波田自身も関わっていたが、それ以外のバックヤード関連の仕事は松原に集中していた。具体的には、各種広報制作物の内容調整、署名協力先へのフォローや勉強会の開催など。しかも彼女の場合、時間に融通が効く就業形態であったため、必要以上の負荷がかかることも少なくなかった。

 そんな松原が、次第にオールフォーヒロシマで中心的な役割を果たしていく中、設立メンバーである波田と石橋、そして代表の槙坪大介はどうしていたのだろうか。

勝手連の限界と2011年の市議会選挙

2010年の広島市議選に立候補した、オールフォーヒロシマの石橋竜史。圧倒的な知名度と政策が支持され、現職の自民党候補を上回るトップ当選を果たす 【提供:石橋竜史】

 実は彼らもまた、自分たちの立ち位置と戦略について、決断を迫られていた。

 まず、波田。オールフォーヒロシマと(旧)広島市民球場フォーラム(以下、フォーラム)の混交によって、より市民活動の空気感が濃密になっていく中、今後はメディアの人間として貢献すべきではないかと考えるようになっていた。

「(2010年)当時は、仕事がとにかく忙しかったというのもあるんだけど、さまざまな市民団体が入り乱れる雰囲気に入りづらさを感じていたのも事実です。もちろん、ボトムアップで物事を変えていくために、そういった動きが大事なことは理解していました。けれども、もともと自分はメディア側の人間でしたから、むしろこうした活動を積極的に発信する。それが、僕なりに考える『後方支援』だと思っていました」

 そんな波田による具体的な後方支援となったのが、2012年4月26日にTSSの報道番組でOAされた「専用スタジアムとまちづくり」という特集である。

 サガン鳥栖のベストアメニティスタジアム(当時)を取り上げる6分ほどのVTRの中では、専用スタジアムの快適さや地域への経済効果にも言及しており、大きな反響を呼び起こすこととなった。

 一方の石橋は、市民運動そのものへの限界を感じていたことを明かしている。

「最初は市民の声で、社会を動かせると信じていました。スタジアムのことも、まちづくりのことも。けれども、いくら署名活動をやって市議会に届けても、誰も本気で動こうとしない。それで思ったんです。どんなに真っすぐな想いがあっても、どれだけ署名を集めても、政治の側が動かなきゃ何も変わらない。だったら、誰かに期待するのではなく、自分が議会の中に飛び込む。それしかないんじゃないかって」

 そこからの行動は早かった。広島市議会議員選挙に出馬するために、2010年に市内の安佐南区に転居。そして2011年2月、政治家への転身と安佐南区から無所属、特定政党からの支援なしでの立候補を表明する。2000年から担当していた、サンフレッチェのスタジアムDJも、3月末で現職の貢藤十六に託した。

 そして迎えた4月10日の市議選では、圧倒的な知名度に加えて「地域振興・街づくり」「スポーツ・子ども支援」「政治刷新・市民志向」といった政策が支持され、現職の自民党候補を上回るトップ当選を果たすこととなった。

 では、代表の槙坪はどうなったのか? 行政側の薄い反応に最も失望していたのは、署名活動の現場で陣頭指揮を執っていた彼だった。2度目の署名提出をしたタイミングで、JC(青年会議所)に入会したこともあり、こちらは経済界へと軸足を移していく。

「自分が代表をやっている間、果たしてどれだけ成果があったのか、常に疑問がありました。だったら、地元の経済界とつながったほうが、もっと貢献できるのかなって。そうしたら、だんだんとJCのほうが忙しくなっていった感じでしたね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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