【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

広島の戦後復興と丹下健三の「平和の軸線」 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(16)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

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平和記念公園から見たエディオンピースウイング広島(Eピース)。ひろしまゲートパーク側から見たダイナミックさから一転、静謐なフォルムを見せる 【宇都宮徹壱】

平和記念公園から「平和の軸線」を可視化する

 川を一本超えるのに、思いのほか月日を要してしまった。

 その日、エディオンピースウイング広島(Eピース)での取材を終えた私は、原爆ドームのそばを流れる元安川を超えて、広島平和記念公園にまで足を延ばした。広島滞在時、原爆ドームの前を何度となく行き来していたが、ここを訪れるのは実は初めて。もちろん、避けていたわけではなく、単に行きそびれていただけの話であるのだが。

 昨今のインバウンドの影響もあり、公園内ではさまざまな国籍の人々が訪れていた。最も多くの観光客を集めていたのが、馬の鞍を想起させるアーチ型の原爆死没者慰霊碑。その向こう側に「反核と恒久平和実現まで燃やし続けられる」という、平和の灯(ともしび)。さらに向こう側に、川向うに凛と佇む原爆ドームが見える――。

 毎年、8月6日に開催される広島平和記念式典。NHKの中継映像で何度も目にした光景だが、この場に立つことで「平和の軸線」をリアルに可視化することが可能となる。

「平和の軸線」とは、平和記念公園のさまざまな施設を設計した、丹下健三が提唱したもの。戦後の広島の都市計画を進めるにあたり、平和記念公園と原爆ドームを一直線上に結ぶ軸線を作ることを、日本が世界に誇る建築家は提唱していた。

「平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創りだしてゆくものである」

 これが、平和についての丹下の考え。そして、軸線というアイデアを導き出した理由については、生前このように語っている。

「モニュメントがひとつあった程度で、何が残るのか。市民に忘れ去られるだけだ」

 この「平和の軸線」で、重要な役割を果たすのが、原爆ドームであることは明らかだ。この世界的な戦争遺構が、もし「戦争の忌まわしい記憶」であるとして取り壊されていたなら、平和記念公園は単なる「点」として完結していただろう(ちなみに原爆ドームの保存が決まったのは、終戦から21年後の1966年のことである)。

 対岸の原爆ドームと結ぶことで「軸線」が生まれ、その延長線上に文化・スポーツ施設が建設されることを丹下は夢想していた。実際、原爆ドームからさらに北に補助線を引くと、5-Daysこども文化科学館、広島県立総合体育館(広島グリーンアリーナ)、そしてEピースといった文化・スポーツ施設が、ほぼ線上に並んでいる。

【スポーツナビ】

丹下健三が見据えた戦後広島の街づくり

丹下健三が設計した広島平和記念資料館。丹下は大阪の生まれだったが、戦前の旧制広島高校(現・広島大学)に学び、この地で青春時代を過ごしている 【宇都宮徹壱】

 Eピース建設の物語を振り返る時、スタジアム単体だけに注目してしまうのは、物事の本質を見失う危険性がある。

 そうでなく、広島平和記念公園から北に伸びる「平和の軸線」も意識すべきだ。またタイムラインとしては、スタジアム推進プロジェクトがスタートした2003年から、さらに遡って原爆が投下された1945年までを振り返るべきであろう。

 実際、Eピース建設に携わった建築家や設計者たちもまた、そうした俯瞰的な視点を常に意識していたことが窺える。『PEACE WING――広島サッカースタジアム 構想・設計・建築の記録』に収録された座談会から、仙田満(環境デザイン研究所会長)と川野久雄(大成建設設計本部プロジェクト・マネジメント部専任部長)の発言を引用する。

《川野 丹下さんは1950年、敗戦から5年後のコンペで一等を獲られた際に、鎮魂の灯から一直線上の先に原爆ドームとスタジアムをつくろうとされていました。おそらく、もう一度広島が立ち直っていくための活力や人々の笑顔をスタジアムに託されたのだと。鎮魂だけではなくて、スポーツを通じて市民に大きなエネルギーをもたらしたかったのだと思います。(後略)》

《仙田 平和軸をどのように考えるかが、我々に突きつけられたわけですね。平和軸という「祈りのための軸」が広島市内に延びていて、その軸に出会うとその向こう側(延長線上)に祈りの場所があるということを感じていただけるわけです。(後略)》

 仙田や川野の発言からも、丹下が提唱した「平和の軸線」へのリスペクトが、ひしひしと伝わってくるではないか。

 丹下と広島の縁は、戦前の旧制広島高校(現・広島大学)に遡る。最終学歴は東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科だが、青春時代を過ごした広島には、さまざまな思い出が詰まった土地であったと察せられる(生涯にわたって敬愛する、ル・コルビジェの存在を知ったのも広島時代のことだった)。

 終戦の翌年、広島の復興計画策定のため、戦災復興院から若手建築家が派遣されることとなった。この時、真っ先に志願したのが、当時33歳の丹下とその仲間たち。原爆投下のわずか1年後に現地入りすることは、当時としては勇気のいることだったに違いない。余談ながら丹下は、広島への原爆投下の前後に両親を病気と空襲で亡くしている。

 丹下とその仲間たちが、都市計画業務に従事した成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペティションでの1位入選という形で結実する。すでにこの時、公園限定の計画案ではなく、広島市の中心街に「軸線」を設定していたことは注目すべきだ。

 すなわち、市内を東西軸で横断する平和大通り(通称、100メートル道路)。南北軸に、平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを貫く「平和の軸線」である。そして、さらにその向こう側――。のちに中央公園と呼ばれる地域の周辺に、サッカースタジアムを含むさまざまなスポーツ施設が建設される未来図を、丹下は終戦から5年後の時点で、マスタープランの中に描き込んでいた。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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