【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

ミシャ・スタイルの継続と99%の減資 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(15)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

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2008年のサンフレッチェ広島。柏木陽介(右)、髙萩洋次郎、森脇良太、槙野智章(左)といった、育成組織出身の若手選手たちの才能が一気に花開いた 【(C)J.LEAGUE】

広島スポーツ界の新たな時代への起点となった2008年

 今から17年前、2008年といえば、貴方は何を思い出すだろうか?

 アメリカで初のアフリカ系の大統領が誕生し、中国で夏季五輪が開催され、世界的な金融危機が起こった2008年。この年は広島のスポーツ界にとっても、エポックメイキングな出来事が続いた。といっても、サンフレッチェ広島のJ1優勝はこの4年後で、広島カープのセ・リーグ3連覇が始まるのは8年後。タイトルに関連した話ではない。

 この年、2度目のJ2での戦いに挑んだサンフレッチェは、開幕から全節1位をキープしながら7節を残して9月に優勝を決め、しかもJ2史上2クラブ目となる勝ち点100を達成している。また、ミシャ・ペトロヴィッチのスタイル(いわゆる「ミシャ式」)がチームに浸透。柏木陽介、髙萩洋次郎、森脇良太、槙野智章といった、育成組織出身の若手選手たちの才能が一気に花開いた。

 一方、この年のセ・リーグで4位に終わったカープは、広島市民球場での公式戦が、このシーズンで最後となった。翌2009年からはMAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島への移転が決定。旧市民球場は2010年から解体作業が始まる。

 こうした動きと呼応するように誕生したのが、オールフォーヒロシマ。その結成もまた、2008年の6月18日であった。前年の12月、サンフレッチェ広島の社長に就任していた本谷祐一は、この勝手連の存在を認識していた。

「はっきりとは覚えていませんが、そういう動きがあるということについては、クラブの社長としてポジティブに捉えていました。中心メンバーの中には、スタジアムDJで、のちに市議会議員となった石橋竜史さんをはじめ、サンフレッチェに近い人たちも何人かいました。あくまでも、僕個人のお付き合いの中での話でしたけどね」

 その上で、元社長はこうつづける。

「彼らが頑張って『街なかにスタジアムを』という主張を続けてくれたからこそ、今のEピース(エディオンピースウイング広島)につながっていったんです。最も大変な時期に、彼らだけに苦労をかけさせたのは申し訳ないと思っています」

 サンフレッチェが圧倒的な強さでJ1復帰を果たし、カープは旧市民球場から移転。そして、その跡地に新スタジアム建設を切望する、オールフォーヒロシマが活動を開始する。広島のスポーツ界にとり、2008年は間違いなく新たな時代への起点となっていた。

ミシャの退任と未知数の新監督

ミシャ・ペトロヴィッチの後任として、2012年からサンフレッチェを率いることとなった森保一。のちに3回のJ1優勝を果たし、日本代表監督に就任 【写真は共同】

 つづく2009年のサンフレッチェは、ミシャ体制4年目にして充実したシーズンを送ることとなる。2年ぶりのJ1では、昇格クラブとしては当時最高の順位である4位でフィニッシュ。天皇杯でも準優勝となり、繰り上げで翌年のACL出場が決まった。

 そして迎えた2010年、初出場となったACLはグループステージ敗退となるも、3連敗から3連勝と意地を見せた。また、ナビスコカップでもクラブ史上初の決勝進出。ジュビロ磐田に3-5と敗戦するも、初タイトルへの渇望が一気に高まる経験となった。

 一方のリーグ戦では、2009年以上の順位が期待されたものの、2シーズンつづけて7位で終了。そして2011年シーズンをもって、ミシャは広島を去ることになった。この年、クラブは2年連続での赤字見込みとなり、累積赤字解消のために高年俸となっていたミシャとの契約更新を断念していた。

 果たして、ミシャの次の指揮官を誰にするのか? 強化部長の織田秀和は、後任候補をリストアップしていた。年俸をある程度は抑えられて、クラブの理念と哲学を理解し、そしてミシャが定着させたスタイルを継承できること。これらの条件に見合う候補を3人に絞り込み、その中にはクラブOBの森保一も含まれていた。

「3人とも自信をもって推薦できる方々でしたから、順番を付けずにリストを提出したんです。そうしたら久保会長も本谷社長も、迷いなく『森保でいこう!』と。確かに元日本代表で人気もあるし、サポーター受けもいい。一方で、監督経験ゼロというリスクもありました。ただ、会長も社長も『たとえ降格しても森保でいく』と腹を括ってくれていましたので、僕としても吹っ切れることができましたね」

 その上で織田は「さすがに就任1年目で、いきなり優勝するとは予想できませんでしたね。持っているなあ」と苦笑する。ちなみに織田はマツダSCでの現役時代、高卒3年目だった森保にボランチのポジションを奪われ、センターバックに回っている。そうした経験も加味しての「持っているなあ」だったのかもしれない。

 しかし当時、企画広報部長だった森脇豊一郎は、違った見方をしていた。社長の本谷は、ミシャの後任をいずれ森保に託すことを考え、その準備を進めていたと森脇は証言している。

「2010年に森保さんは、アルビレックス新潟にコーチとして招かれますが、外の空気を経験させながら、サンフレッチェを客観的に見てもらうという考えが本谷さんにはあったと思います。そしてミシャの契約満了に合わせて、森保さんを後任監督に据えました」

 その上で森脇は「森保さんが1年目で、タイトルを獲得したことばかりが注目されましたが、僕は本谷さんが3年前からレールを敷いていたと思います」と言い切る。

 この件について本谷に確認すると「いやあ、それは買いかぶり過ぎですよ。森保をリストに入れたのは織田だったし、久保さんも全面的に森保を推していましたから」と笑いながら語っていた。森保の監督就任は結局のところ、久保と本谷と織田による「合作」と考えるのが、より実相に近かったのだろう。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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