ビジネスと草野球で紡がれた新旧社長の信頼関係 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(14)
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島の生活を満喫する元サンフレッチェ社長
2007年、2度目のJ2降格の責任をとる形で、久保がサンフレッチェ広島の社長を退任。後任に指名されたのが、本谷祐一であった。1954年生まれの71歳。久保の4歳下になるが、草野球でつながりがあったというのが興味深い。
そんな本谷と待ち合わせたのは、広島駅に隣接したホテルグランヴィア広島のカフェ。日に焼けた額に白髪、そしてラフな白い襟なしシャツという出で立ちは、元Jクラブ社長というよりも、瀬戸内で暮らすベテラン漁師を想起させる。実際のところ本谷は、瀬戸内海中西部にある斎島(いつきしま)の生まれであった。
「周囲4キロくらいの小さな島で、今住んでいるのは4世帯、7人くらいじゃないですかね。呉市が運営する定期便もあるんですが、将来的には誰も住まなくなってしまうかもしれないです。島には先祖のお墓もあるんですが、僕の畑がある上蒲刈島に移そうと思っています。今はそこで、釣りと畑仕事をしながらのんびり暮らしています(笑)」
本谷が大阪の桃山学院大学を卒業後、広島に戻って就職した理由は「満員電車が嫌だったから」。当時のダイイチに1978年に入社する。
「入社した当時、店舗があったのは中国エリアと四国の一部の主要都市でしたね。のちに福岡で店長もやりましたけれど、僕が入った時はまだ九州に店舗はなかった。入ってすぐの頃は、本店で冷蔵庫を売っていました」
その後は順調に出世を重ね、1996年には店舗開発部長に就任。さらには、デオデオの陸上部とアーチェリー部のGMを兼任していた。ここまでの経歴を見る限り、サッカーとの接点は皆無である。
のちにクラブ社長として、サンフレッチェのJ1復帰、初のACL出場、そして2012年のJ1初優勝といった、さまざまな快挙に立ち会うこととなる本谷。実は新スタジアム建設においても、彼は重要な役割を果たすことになる。
野球一筋の男がJクラブを任されるまで
久保がサンフレッチェ社長に就任した際、自身が特に信頼を寄せている3人の腹心を出向として呼び寄せている。1人目が営業担当の山田恵司、3人目が広報担当の眞鍋茂。本谷はデオデオからの2人目の出向者で、1998年に事業本部長として迎えられた。この3名に共通するのは、ダイイチやデオデオでの店長経験があること。その理由について、久保はこのように語っている。
「クラブ経営を軌道に乗せていくために重視したのが、毎月の収支や目標設定をきちんと立てること。対戦相手や天候、平日夜か週末かによって入場者数も変わってきます。そういった諸条件を頭に入れながら、具体的な数字を提示して社員の共通認識にしていく。これは店舗経営とほとんど一緒なんですよね」
3人の中では山田と眞鍋がサッカー経験者だが、プロサッカークラブの経営や運営の知識やノウハウがあったわけではない。その点でいえば、3人とも素人であった。
こと「サッカー」に関しては、マツダから来ている人間のほうに、圧倒的な知見と経験があった。しかしクラブ経営を立て直すには、ただサッカーを知っているよりも店長経験がより重要である、というのが久保の考え。とりわけ、事業本部長の本谷には期待を寄せていたようだ。
「サンフレッチェに出向するまでは、陸上部とアーチェリー部のGM業務をやっていました。まあGMといっても、監督のお世話係みたいなものでしたけど」
そう謙遜する本谷。未体験のサッカーについて不安はなかったかと尋ねると「競技は違うけれど、ずっとスポーツの現場にはいましたからね」。そして、こう続ける。
「それと久保さんは本業の社長でもありましたから、ずっとサンフレッチェばかりに向き合うわけにもいきません。ですから、僕が現場監督という感じで、困ったことがあったらどんどん報告するようにと、久保さんからは言われていました」
出向したばかりの頃は、クラブ収益の安定化に苦労したという。いくら店長経験があるとはいえ、初めて経験するプロサッカークラブの経営は、試行錯誤の連続だった。
「いろんなことに着手しましたが、そのひとつが損益の明確化。毎試合ごとに、どれくらいの入場料収入が必要で、そのために何人のお客さんを集める必要があるのか。具体的な数字に基づいた会議をずっとやっていました。それと僕自身、クラブ経営というものを知る必要があったので、JリーグのGM講座で学ばせていただきました」
プロのクラブ経営者を育成するべく、Jリーグは1998年からGM講座を開催しており、本谷は早い段階で受講している。余談ながら同期には、ヴェルディ川崎のホームタウンを東京に移転することに尽力した坂田信久、清水エスパルスの強化育成部長や名古屋グランパスのGMを歴任した久米一正(故人)など、錚々たる顔ぶれが揃っていた。