【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

サンフレッチェの経営危機と2度のJ2降格 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(13)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

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Jリーグ開幕6年目の1998年は、各クラブの経営努力が求められる時代になっていた。そんな中、久保允誉はサンフレッチェ広島の社長に就任する 【写真は共同】

経営改革の断行と初めてのJ2降格

 久保允誉のサンフレッチェ社長就任が決まったのは、1998年6月30日。当時の報道に当たると「プロスポーツチームの運営は未知の世界だが、元気なサンフレをつくりたい。3年をめどにリーグ優勝を、また2002年ワールドカップ(W杯)にも選手を送り出したい。やれる自信もわいてきている」と語っていたようだ。

 とはいえ新社長が直近で取り組むべきは、8億円あまりの累積赤字の解消、そして抜本的な経営改革。そこでまず着手したのは、人件費の圧縮だったと久保は振り返る。

「シーズンが始まる前、5000万円以上の契約の選手をゼロにしました。この年までは降格はなかったので、思い切って人件費に手を付けることができたんです。もちろん、サポーターからは大いに批判されましたよ。けれども今後は、育成型クラブで行くと。そして下部組織を充実させて、7年後には日本代表に何人も選手を輩出するようなクラブに持っていくと。そう宣言したんです」

 すでに1995年のオフ、クラブはイヴァン・ハシェック、片野坂知宏、森山佳郎といった94年ファーストステージ優勝メンバーを放出。久保はさらに人件費を圧縮しつつ、将来の主力選手を自分たちで育てる方針を固める。「育将」今西和男の存在から、サンフレッチェは設立当初から「育成型クラブ」のイメージが持たれることが多い。だが本当の意味で、クラブが育成に舵を切ったのは、久保の社長就任が大きな契機であった。

 こうした努力の積み重ねにより、サンフレッチェ広島は2000年度に6期ぶりの黒字を達成。1996年から4桁が続いていた平均入場者数も、2002年には1万941人と1万人を突破することとなった。しかしこの年、ファーストステージ15位、セカンドステージ14位、総合順位15位でクラブ史上初のJ2降格となってしまう。

 就任時に「3年をめどにリーグ優勝を」「2002年W杯にも選手を送り出したい」と語っていた久保だが、現実は厳しかった。

 翌2003年のJ2では、アルビレックス新潟、川崎フロンターレとのデッドヒートを辛くも制し、3位の川崎に1ポイント上回る2位で1シーズンでのJ1復帰を果たす。しかし2004年以降、J1では2桁順位がほぼ定位置。一方、経営状態を見てみると、2005年以降は20億円台の予算で推移するも、およそ良好とは言い難い経営状態がつづく。そして累積赤字は、2012年度の時点で20億円にまで達することとなった。

4年ぶりに迎えた外国籍監督、その名は「ミシャ」

19年にわたりJクラブで指揮を執ることとなる、ミハイロ・ペトロヴィッチ。その端緒を作ったのは、サンフレッチェ広島の強化部長の直感と社長の決断だった 【写真は共同】

 J1に復帰して3シーズン目の2006年、サンフレッチェ広島は4年ぶりに外国籍の指導者を監督に迎える。オーストリアとセルビアの国籍を持つ、ミハイロ・ペトロヴィッチ、通称ミシャである。この人事を決断したのは、この年に強化部長となった織田秀和。ジェフユナイテッド千葉のGMだった祖母井秀隆の仲介で、織田はオーストリアのグラーツにてミシャとの面談に臨んだ。当時の状況を織田に振り返ってもらおう。

「サッカーの話を始めると、お互い止まらなくなってしまうんですよ。ミシャは自分が理想とするスタイルについて、こっちはサンフレッチェの目指すものについて、お互いばーって喋りつづけるわけです。気がつけば2〜3時間、初対面だったのに、ずっとサッカーの話ばかりしていました」

「この人なら、チームを任せられるのではないか」――。そう、織田は直感した。その一方で「こんな選び方でいいのだろうか」という後ろめたさも感じていたという。

「だってミシャのことはぜんぜん知らなかったし、(監督を務めていた)シュトゥルム・グラーツがどんなサッカーをしているのか、見たこともなかったわけですから。ただ、彼と2〜3時間話しただけで『任せたい』と思ってしまったんですよね。強化の人間としては、こういう監督選びは絶対にやってはいけないんですが(苦笑)」

 葛藤を抱えつつ、その日のうちに織田は日本の久保に電話して、正直な気持ちを打ち明けた。社長の答えは「オリちゃんがいいって言うなら、それでええ。一緒に何かあったら心中しよう」。その決断に背中を押され、ミシャの監督就任は決まった。もっとも「クラブ内では強化部の方針に反対意見も多かったですね」と久保は回想する。

「反対の一番の理由は、ミシャの年俸が高かったこと。それでも私はミシャのスタイルを(映像で)見て、こうした攻撃的なサッカーこそがサンフレッチェが求めるサッカーだなと思いました。実績のある外国人選手に大金をかけるよりも、可能性が感じられる監督に賭けてみようと。最初はなかなか結果が伴わなかったですが、結果としてサンフレッチェに新しいサッカーが生まれたわけです」

 サンフレッチェで6シーズン、浦和レッズでも6シーズン、そして北海道コンサドーレ札幌で7シーズン。合計19シーズンにわたり、日本で指導を続けることになるミシャだが、その端緒を作ったのが織田の直感と久保の決断によるものであったのは興味深い。ロジックとデータが重視される現代なら、まずあり得ない決定プロセスといえよう。

 ミシャがサンフレッチェのみならず、日本サッカー界に与えた影響については、枚挙に暇がない。代表的なものを挙げるなら、可変式3バック(ミシャ式)の導入である。

 当時の日本は4バックが主流であり、3バックは守備的なイメージが強かった。しかしミシャは、3バックでも魅力的かつ攻撃的なサッカーが可能であることを証明。GKやCBも参加するビルドアップ、ポジショナルプレーの実践、攻守でのシステムの変化。今となっては当たり前のスタイルだが、これらを日本サッカー界に定着させたのはミシャの功績であり、後継者となる森保一をはじめ多くの日本人指導者にも影響を与えた。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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