【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

デオデオからやって来た改革者、久保允誉 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(12)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

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サンフレッチェ広島会長の久保允誉。2代目社長としてエディオンを業界5位に押し上げ、街なかスタジアム建設にも長年にわたって尽力してきた 【宇都宮徹壱】

一度は断っていたサンフレッチェ広島の社長就任

 サンフレッチェ広島の親会社にしてメインスポンサー、そして新スタジアムのネーミングライツを持つ、株式会社エディオン。その本社は、大阪の中之島にある。中之島は、大手企業のオフィスや大阪市役所、裁判所などが集まる、大阪の政治・経済の中枢。北側に堂島川、南側に土佐堀川が流れ、緑あふれるエリアでもある。

 大阪三井物産ビルの8階を訪ねると、立派な応接室に通された。壁には、エディオンピースウイング広島(Eピース)の図面が掲げられ、部屋の奥にはオリンピック聖火トーチが3本も飾られてある。2004年アテネ、2012年ロンドン、そして2020年東京。これからインタビューする人物は、過去3回も聖火ランナーを務めた経験を持つ。

 やがて約束の時間ぴったりに、その人物が登場する。エディオンとサンフレッチェ広島の会長、久保允誉。1950年生まれで、今年75歳になる。これまで周囲の人間から、カリスマ性の感じられるエピソードをたびたび聞かされていた。しかし実際に対面してみると、実ににこやかで物腰も柔らかい。とはいえ、油断は禁物だ。

「私は二代目ですが、先代の父(久保道正)が私財を拠出して『財団法人久保スポーツ振興基金』というのを作ったんです。目的は地域への恩返し。父はマラソン、私は野球をやっていたので、スポーツでの地域貢献は自然の流れだったと思います」

 久保がまず語りはじめたのは、昭和末期の1987年から始まった、スポーツによる地域貢献であった。

 エディオンの設立は2002年。その源流をたどると、1946年に広島市に設立された「久保兄弟電機商会」に行き着く。その後、「第一産業株式会社」「株式会社ダイイチ」「株式会社デオデオ」と社名変更。サンフレッチェ広島のユニフォームスポンサーとなったのは、デオデオ時代の1997年から。以降、同クラブの胸スポンサーはずっと「デオデオ」と「エディオン」が続いている。

 もっとも、当時のデオデオあるいは久保自身が、地元のプロサッカークラブの経営を積極的に引き受けたわけではない。むしろ当初は、極めて消極的だったことは、会長自身が認めるところ。当時の市長と県知事と商工会議所会頭、そしてマツダ社長のジェームズ・ミラーから、クラブ社長就任の依頼を受けた時は「私はモノを売る前掛け商売しかできないので堪えてください」と断ったくらいである。

新社長の方向性は「さらに育成に力を入れていく」

広島サッカーミュージアムで展示された、サンフレッチェ広島の歴代ユニフォーム。1997年以降はデオデオ(現・エディオン)が胸スポンサーを担っている 【宇都宮徹壱】

《マツダサッカー部を母体とするサンフレッチェは、観客数の低迷で約九億円の累積赤字を抱える。開幕前、選手の年俸を大幅カットし、人気プレーヤーを放出するなどリストラを断行した。地元は「たる募金」や観客動員で応援しながら、筆頭株主で大スポンサーでもあるマツダの支援に期待をかける。/マツダはしかし、フォード主導で再建の道を歩む。「今まで通りの支援は続けます」。ジェームズ・ミラー社長(51)は、そう表現し、球団への増資要請をやんわり断る。》

以上、1998年4月8日の中国新聞からの引用。当時のマツダの苦境を連載で特集した記事の中で、サンフレッチェ広島への支援は「現状維持が精いっぱい」という、厳しい経営状態が切々と描かれている。

 別の記事によると、当時のクラブの株主構成はこのようになっていた。マツダが5億円で全体の41.32%。次いで広島市と広島県が1億円ずつ、中国電力と広島銀行が5000万円ずつ、さらに中国新聞社が3000万円、広島総合銀行と中電工が2000万円ずつ、その他39社の合計が3億4000万円――。

 筆頭株主に増資が見込めず、行政にもこれ以上頼るわけにはいかない。こうした背景があり、当時のデオデオに泣きついた、というのが実際のところである。クラブ社長就任に最初は難色を示した久保であったが、再三にわたるオファーにようやく承諾。社長就任が発表されたのは、この年の6月30日のことであった。

「社長就任の時、久保さんはこうおっしゃったんです。『サンフレッチェは株式会社だ。株式会社は利益を出さなければならない。だから利益を出すために、あらゆる努力をするんだ』と。それまでクラブには『サッカーを商売として成り立たせる』という発想が希薄でした。そこから180度の転換。今西さんも『オリちゃん、やっとトンネルの向こう側に光が見えたね』と喜んでおられました」

 今西和男から「オリちゃん」と呼ばれていたのは、のちにサンフレッチェの強化部長、さらには社長に就任することになる織田秀和である。1961年生まれで、1984年の入社以来マツダ一筋。現役引退後は現場の裏方に徹し、1992年にサンフレッチェ広島に出向後も、今西の下で強化畑を歩んできた。

「久保さんの社長就任は、今西さんも大歓迎でしたよ。聞いた話では、久保さんが社長を引き受けるにあたり、これまでのクラブの収支をひととおりチェックして『これは立て直せるかもしれない』とおっしゃったそうです。判断のカギとなったのが、人件費の圧縮。有名な外国人選手を高額で獲得するのではなく、自前で選手を育てればいい、という発想。これこそが、育成型クラブの始まりだったと思います」

 もともと今西もまた、育成の重要性を強く認識、かつ実践していた。そこに、久保の経営的視点が加わって両者の考えが一致。「今後さらに育成に力を入れていく」というクラブの方向性が、ここに定まったのである。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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