広島・東京間で紡がれていった新スタジアム像 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(11)
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「今西さんの意志を受け継ぐのは、俺らしかいない!」
オールフォーヒロシマの元メンバーで、都内の大手ゼネコンに勤務する「またろ」は、1968年生まれで広島市出身。当人の強い希望で本名を出せないため、以降もこのハンドルネームを用いることにする。つづきを聞こう。
「そこは倉庫のようになっていて、当時のプレゼン用のパネルやパースなんかが、ホコリまみれになって出てきました。それを見たメンバーが『今西さんの意志を受け継ぐのは、俺らしかいない!』という気分になったそうです」
またろがオールフォーヒロシマの一員となったのは、立ち上げから2カ月後の2008年8月。当時はネット議論の主戦場だった「2ちゃんねる」のスタジアムに関するスレッドで積極的に発信していた。やがて、オールフォーヒロシマの存在を知る。
しかも立ち上げメンバーの波田健一は、中学・高校のブラスバンド部の後輩だった。この偶然に驚きつつも、今後の活動において建築や設計の専門知識を持つメンバーが必要となると考え、またろは自ら波田にコンタクト。ブラスバンド部の先輩・後輩は、実に四半世紀ぶりに再会することとなる。
それにしても「今西さんの意志を受け継ぐのは、俺らしかいない!」という決意には、実に心に響くものがある。一度は挫折したかに見えた、スタジアム推進プロジェクトの試み。2006年から2年のブランクを経て、今度はサンフレッチェのファン・サポーターによる勝手連に引き継がれることとなった。果たして、こうした動きは他にはなかったのだろうか。
「なかったですね。今西さんの挑戦が挫折して以降、僕らの動きはファーストペンギン的だったと思います。だからといって、当時はそういったことを声高に主張することはありませんでした。『サンフレッチェのための活動』に見られてしまうと、この運動は支持を得られないとも思っていました。そもそも広島って『カープの街』であり『平和都市』でもありましたから」
「過去からのエール」となった丹下健三のマスタープラン
2008年から11年まで、実質的には4年間の限定的な活動に終わった、オールフォーヒロシマ。その間には、署名活動やイベントの開催、さらにはデモ行進など、さまざまな動きを見せている。
そんな彼ら彼女らの活動の「クライマックス」といえば、2011年5月20日に行われた、広島市長へのプレゼンテーションであった。
この年の4月10日、広島市長選挙が行われ、無所属で元厚生労働官僚の松井一實が当選。3期での退任を表明した秋葉忠利前市長に替わって、広島市政のトップに立つこととなった。この機会を捉え、オールフォーヒロシマとして、市民球場跡地利用についてのプレゼンを試みたのである。
この時の提案書を作成したのはまたろであったが、もうひとり重要な役割を果たしたのが、佐賀県鳥栖市で精神科医をしている「KOP」である。1980年生まれのKOPは、メンバー内では「国内外のスタジアムにやたらと詳しい」ことで一目置かれていた。
「実家が広島で歯科医院をやっていたので、僕も歯科医大を卒業したものの、国家試験は不合格でした。その後、九州にある医大に合格して精神科の医師になるんですが、ちょうどオールフォー立ち上げの頃は、実家にいてニート状態。それで波田さんのブログを見て、すぐに『ビラ配りでも何でもやります!』って連絡したんです」
オールフォーヒロシマの活動に飛び込んだ一番の理由は、自身もサッカーファンのひとりとして街なかスタジアムを切望していたから。実はKOPには建築家に憧れていた時期があり、広島市中央図書館で資料を読み漁っている時に出会ったのが、丹下健三による「広島平和記念公園」のマスタープランである。
平和記念公園と原爆ドームを一直線上に並ぶ、軸線の向こう側には中央公園があり、そこには文化・スポーツ施設、さらにはスタジアムまで描かれてあった。
「当時はひとりで『広島の中心街にスタジアムができないか?』と、あれこれ模索していました。その時、たまたま丹下さんのマスタープランを目にして、衝撃を受けましたね。中央公園に描かれたスタジアムを見つけた時には、過去からのエールにように感じられて、居ても立ってもいられなくなりました」
マスタープランに描かれた、平和記念公園から中央公園に至る軸線。これこそが、若き日の巨匠が提唱した「平和の軸線」である。のちにエディオンピースウイング広島(Eピース)をめぐっては、後付けのように語られることの多い「平和の軸線」。しかし当時は、市民の間でも日常的に認識されていたとは言い難い状況であった。