【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

2008年6月18日、オールフォーヒロシマ結成 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(10)

宇都宮徹壱

「消去法」で選ばれたオールフォーヒロシマの会長

オールフォーヒロシマの代表を務めた槙坪大介。顔も名前も出せる上にサンフレッチェ広島にも顔が効くため、組織内では貴重な存在だった 【宇都宮徹壱】

 その夜、広島市内の今はなきイタリアン「Origine(オリジネ)」で、第1回の会合が行われる。参加したのは石橋と波田、のちにオールフォーヒロシマの代表となる槙坪大介、そして当時現役プレーヤーだった森﨑浩司。まだ見ぬ、街なかの新スタジアムについて、大いに語り合うこととなった。

 この第1回会合が行われた2008年6月18日が、オールフォーヒロシマの設立日となっている。そして、発足当初の彼らの活動は大きく3つ。すなわち、メンバー集め、署名活動、そして関連イベントへの参加であった。

 当時の記録を確認すると、10月19日に広島県立美術館にて「市民球場跡地利用市民シンポジウム」に参加。11月13日には署名活動1万筆分を広島市に提出。そしてホーム最終戦の11月22日には、西区民文化センターにてメンバー募集説明会が行われている。

 この時に挨拶に立ったのが、オールフォーヒロシマの代表に任命された槙坪であった。なぜ、石橋や波田ではなく、設立メンバーの中では最年少(当時31歳)の槙坪だったのか。波田は「彼には申し訳ないけれど」と断った上で、消去法による人選であったことを明かした。

「本当は言い出しっぺの僕だったり、石橋くんだったりが代表になるべきだったと思います。ただし僕はメディアの側にいましたし、石橋くんもDJをやっていたからサンフレッチェの色が強すぎる。そんなわけで、自分の会社を経営していて、顔も名前も出せる槙坪くんに代表をお願いしました」

 当時の槙坪は、サンフレッチェの選手たちを食事に誘う機会が多く、クラブ社長だった久保允誉ともつながりがあった。オールフォーヒロシマの代表を引き受けた理由について、自身も消去法だったことを認めつつ、したたかな計算もあったことを明かす。

「父が親しかったかったこともあり、僕は大学を出たばかりの頃から久保さんの運転手みたいなことをやっていました。当時の選手たちとも『ダイさん』と慕われていたので、クラブから何か言われることもないだろうと。加えて、石橋さんや波田さんと比べて動きやすい立場だったので、その意味でも僕が代表になるのは必然だったと思います」

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※文中敬称略

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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