【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

喫茶店マリーナから見た広島市民球場の思い出 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(09)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

1975年、広島カープがセ・リーグ初制覇。プロ野球界で初めての市民球団の優勝は、全国的な感動を呼び、広島の街全体が祝賀ムードに包まれた 【写真は共同】

旧広島市民球場解体後の「空白の11年間」

「実は今日まで、ここの敷地に入るのをずっと控えてきたんです。取材の場所がゲートパークのスタバと聞いて、ちょっとドキドキしていたんですけど(笑)。正直なところ、こういう決着には、今でも納得しているわけではないですよ。それでも、いつかは現実を受け入れる必要はあると思ったので」

 テーブルの向こう側に佇む人物は、憂いを含んだ笑みを浮かべながらそう語ると、カップに残ったコーヒーを飲み干した。

 中川公一郎は1959年生まれで、今年66歳。広島市民球場に隣接していた、東京海上ビルの1階で、かつて「マリーナ」という喫茶店を経営していた。そんな彼は一時期、解体される市民球場の「語り部」として地元メディアにも登場する、ちょっとした有名人でもあった。

「あれよあれよという間に、移転が決まりましたが、ここに改修した新球場を作ってほしかったというのが僕らの考え。この土地に戦後、球場ができたという経緯を含めて、市民球場は戦後復興のシンボルでした。それがあっさり壊されることには、納得できない部分もありましたね」

 1957年7月の完成から2009年3月31日まで、広島カープの本拠地としてファンや地域住民に親しまれてきた広島市民球場は、施設の老朽化を理由に2010年8月31日限りで閉鎖。2012年2月28日をもって、ライトスタンドの一部を残して解体された(のちにライトスタンドも撤去されている)。

 代わって、跡地にオープンしたのが「ひろしまゲートパーク」。市民公園と商業施設が一体となった、広島市中心部の新たな賑わい拠点として2023年3月31にオープンした。ここから原爆ドームは、すぐ目の前。Eピースまでは徒歩10分ほどでアクセスできる。そんな好立地ゆえ、平日でもインバウンドを含めた観光客で賑わっている。

 ここまで読んで、多くの方が疑念に思われることだろう。市民球場が完全に取り壊された2012年から、ゲートパークがオープンした2023年まで、実に11年。なぜ、そこまで空白期間があったのだろうか――。

 この「空白の11年」に起こった、さまざまな出来事については、これから少しずつ言及していく。その前に旧市民球場の存在意義について、元喫茶店マスターの視点から掘り起こすこととしたい。

「山本浩二も衣笠も身近な存在だった」

旧市民球場の隣で2012年まで、喫茶店「マリーナ」を経営していた中川公一郎。跡地活用については、サッカースタジアムの建設を望んでいた 【宇都宮徹壱】

 カープファンの聖地「勝鯉(しょうり)の森」は、移転したMAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島(マツダスタジアム)に持っていかれることもなく、ひろしまゲートパークの南側に並び立っている。

「勝鯉の森」を構成するのは、3つのモニュメント。すなわち「セントラルリーグ優勝記念碑」「日本選手権シリーズ(日本シリーズ)優勝記念碑」そして「衣笠祥雄連続試合出場世界新記録顕彰碑」である。

 このうち、最も古いのが「セントラルリーグ優勝記念碑」で1975年に建立。この年の「赤ヘル旋風」は、東京の小学生だった私でもよく覚えている。

 監督就任1年目(しかもシーズン途中にコーチから昇格)の古葉竹識に率いられた赤ヘル軍団は、3年連続で最下位のチームとは思えないほどの快進撃を見せ、10月15日の後楽園での巨人戦で、球団史上初となるセ・リーグ制覇を果たした。余談ながら、広島のキャップが濃紺から赤に変わったのも、このシーズンからであった。

 さて、それまで東京で暮らしていた中川家が、両親の故郷である広島に転居したのは1978年。セ・リーグ初制覇を果たした3年後のことであった。当時17歳の中川少年にとり、広島に来て一番のカルチャーショックが、カープの選手との距離感だったという。

「今、ソフトバンクのお店がある場所が、当時はガソリンスタンドだったんですよ。カープの試合がある時は、衣笠とか山本浩二とか高橋慶彦とか、派手で大きな外車を乗り付けていましたね。そういうスター選手たちが、すぐ間近で見られるのが広島。東京では考えられないことでした」

 やがて、監督の古葉が店の常連となる。広島市民にとっては、まさに神様のような存在だったはずだが、カープの指揮官は気さくな表情を崩すことはなかったそうだ。

「マリーナの名物メニューに、玉子カレーというのがあったんですが、古葉監督が試合前に必ず食べに来てくれましたね。ゲン担ぎみたいなところもありましたけれど、それが報道でファンの間でも広まりました。店のにぎわいに寄与していただいたという意味でも、古葉さんは本当に恩人でした」

 1991年に母親から店を引き継いで以降も、ずっとカープと市民球場を見守り続けた。しかし2005年7月、市民球場の後継施設となる新球場が、ヤード跡地に新たに建設されることが、当時の秋葉忠利市長によって発表される。なし崩しともいえる決定は、中川にとっても受け入れ難いものであった。

「球場周辺にはウチをはじめ、多くの商店がありましたからね。市民球場がなくなると、商売に影響が出るのは明らかでした。ただ、そういったことを抜きにしても、この場所で暮らしている人間にとって、市民球場というものは『あって当たり前』という感じだったんですよ。それがなくなってしまう喪失感のほうが、大きかったですね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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