【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

すべては広島市民球場の移転話からはじまった! 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(08)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

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広島カープの本拠地、MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島(マツダスタジアム)。この日は満塁弾も飛び出し、球場は地元ファンの熱気で包まれていた 【宇都宮徹壱】

「Jリーグの日」にMAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島へ

 5月15日は「Jリーグの日」。2025年のその日は木曜日だったので、Jリーグの公式戦は1試合もなし。広島に滞在していた私は、実に「Jリーグの日」らしくない夜を過ごすことにした。MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島(マツダスタジアム)でのプロ野球観戦。広島カープは、ホームに読売ジャイアンツを迎えていた。

 プロ野球をリアル観戦するのは、随分と久しぶりだ。どれくらい久しぶりかというと、社会人になって1年目の年以来だから1992年。なんと、33年ぶりである!

 その日も取材があったので、球場に到着したのは20時を過ぎた頃。見上げると、照明灯の光が実にまばゆく、得も言えぬ高揚感をかき立てる。旧市民球場でのナイトゲームも、こんな雰囲気の中で行われていたのだろうか。

 当日券売り場にて、内野自由席のチケットを1900円で購入。試合は巨人が1点リードしていたが、6回に満塁弾が飛び出してカープが逆転。球場の熱気は最高潮に達した。

 入場後は席に腰を落ち着けることなく、1階のコンコースを周回しながら、さまざまな角度で試合を楽しむことにした。360度ぐるりと一周できるコンコースは、エディオンピースウイング広島(Eピース)でも見ることができる。

「あのコンコースは、市民球場の移転にあたり、カープの球団関係者がMLBを現地視察して取り入れたものでした。野球の場合、イニングごとに区切りがあります。その間にトイレに行ったり、フードコーナーに並んだりする人がいるので、どこからでもゲームが確認できるようにしたんですね」

 そう教えてくれたのは、RCC(中国放送)の報道制作局専任局次長、小林康秀である。9年間のスポーツアナウンサー時代、そして19年間のキャスター時代、地元スポーツの現場に何度も足を運んできた経歴があるだけに、その言葉には強固な説得力がある。ならば、旧市民球場跡地については、どのような見解を持っているのだろうか。私の質問に対し、小林は慎重に言葉を選びながら、このように答えてくれた。

「広島駅近くに移転せず、あの場所のままで改修してほしいという意見も確かにありました。また、移転が決まった後も『思い出を残してほしい』とおっしゃる方もいらっしゃいました。最終的にライトスタンドのベンチの一部を『勝鯉(しょうり)の森』(後述)の近くに設置したわけですが、あの形でよかったのかというと、いろいろと意見が分かれるところだと思います」

工期わずか5カ月! 終戦から12年後に完成した市民球場

RCC(中国放送)報道制作局専任局次長の小林康秀。広島のスタジアム問題や旧市民球場跡地問題など、長年にわたり取材しつづけてきた 【宇都宮徹壱】

 野球おんちの私が、カープの本拠地を訪れたのは3つの理由があった。まず、広島の地域性を語る上でカープは外せないこと。次に、解体前の広島市民球場の熱気をイメージしたかったこと。そして、カープの本拠地移転の「意味」を実感することである。

 マツダスタジアムが開業したのは2009年。それから16年が経過し、今ではすっかり地元ファンの間で定着した感がある。しかし、それ以前に中区基町にあった旧市民球場は、1957年から2008年まで、実に51年にわたってカープファンのみならず、広島市民の心の拠り所であり続けたのである。

 1957年といえば昭和32年。原爆投下と終戦から、まだ12年しか経っていない。丹下健三が設計した、広島平和記念資料館が竣工したのが、その2年前。広島港、鉄道、道路網の再整備が進み、地方都市としての基盤強化と「平和都市」への再生が図られていた。一方、Eピースが建設された中央公園の周辺は、戦争で家を失った人々や引揚者などによる不法バラック群が作られ、のちに「原爆スラム」と呼ばれるようになる。

 そんな復興のさなか、広島市の中心地にナイター設備のある球場が建設された。プロジェクトの発起人が誰だったのか、それすらも判然としない。わかっているのは、地元の企業10社による寄付が1億6000万円(現在の貨幣価値でおよそ37億円)集まり、これを受けて当時の市長が新球場建設にGOサインを出したことだ。

『広島復興のシンボル 市民球場の過去と明日を語る』という、2010年に発行された小冊子に、市民球場の建設に関する貴重な証言が残されている。語っていたのは、建設を担当した増岡組で、当時、現場監督を担当していた西廣一明。驚くべきことに、この時の工期はわずか5カ月だったという。以下、西廣の言葉を引用する。

《会社は、金のことは二の次で、とにかく工事を間に合わすことを第一義にしていました。/今のように、予算管理がどうの、施工管理がどうのということではなく、自分の持ち場を守り、工期を間に合わすことを最優先させました。/間に合わすためには、夜中の作業もあり、投光器も最大限使いました。》

 この小冊子をプレゼントしてくれたのが「広島文学資料保全の会」代表の土屋時子である。1948年生まれの彼女は、戦後間もない広島の夜空を明るく照らす市民球場の照明灯の光が、70年近くが経過した今でも忘れられないと語る。

「実は私、特に野球やスポーツ好きというわけではないんです。それでも小学生の時、カープファンだった父親に連れられて、できたばかりの市民球場を何度も訪れました。特にナイターの明かりがとてもきれいで、まさに戦後復興の象徴という感じでしたね」

 自ら認めるように、スポーツ好きでも、熱心なカープファンでもない。それでも土屋は、旧市民球場が移転により取り壊されることが決まった時、迷うことなく「旧広島市民球場の歴史と未来を守る会」(以下、守る会)に参画。のちに代表を引き継ぐと、広島市を相手取って法廷闘争まで繰り広げている。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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