聖光学院の土台を作った斎藤監督と組織化に尽力した横山部長 育成のテーマは「ストーリーに価値を持たせる」
彼らは、けがや実力不足など、さまざまな理由でベンチ入りは叶わなかったものの、悔しさやふがいなさを抱え葛藤しながらも、全力でチームを支える。本書は、強豪高校野球部に所属する、レギュラーと同様かそれ以上にドラマチックな彼らの物語である。
『アルプスの歌 ~強豪野球部 もうひとつの甲子園~』(田口元義著)から一部抜粋して公開します。
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育成システムを構築した「監督の右腕」横山部長
日大東北と学法石川に勝つためにと、斎藤は考える。
そして「強い人間を育てる」ことにたどり着く。野球の能力で劣るならば、心を養う。勝負強さ、我慢強さ、苦しいときこそ言い訳をしない、愚痴を言わない。その精神はやがて選手たちを内側から強くし、逆境をも乗り越えられるチームのたくましさとなる―新米監督はそう信じて優れているとは言えない現有戦力と向き合い、チームを育てた。'01年夏の日大東北との福島大会決勝で、延長11回表に4点を勝ち越されたその裏に5点を奪う大逆転劇によって初めての甲子園出場を成し遂げたのは、奇跡ではなく必然だった。
人と真正面から向き合えば、結界は裏切らない。それは斎藤にとって大きな成功体験であり、原点となった。また、聖光学院の新たな歴史を築くこととなる斎藤が野球部の部長だった'98年秋にコーチとして赴任した横山にとっても、人間教育の源流になっていく。
聖光学院の土台を作ったのが斎藤ならば、人を生かすため、強い人物を育成するために野球部を組織化していったのが横山である。斎藤が監督となった'99年当初から下部組織となるBチームは存在していたが、'03年からは精力的に練習試合を重ねるようになっていく。そこには控え選手を「その他大勢」にしないという、横山の確固たる決意が内包している。
「当時の控え選手というのは、グラウンド横での声出しや球拾いが当たり前だったような気がします。そういった選手一人一人にどうやったらスポットライトを浴びせることができるのか? 高校で野球に一区切りをつける選手は圧倒的に多く、アスリートとして真剣勝負できる最後の期間となるわけです。だからこそ、高校を卒業して何年たっても『あの3年間があったから』と、原点に思ってもらえるくらいやり切ってほしいんです」
横山の人を生かす組織化は、年を追うごとに細分化されていき、県外からの部員も増えてきた'05年には育成チームを立ち上げた。こうして、3年生と主力クラスの2年生によるAチーム、次代を担う2年生と能力の高い1年生によるBチーム、一部の2年生と1年生による育成チームというカテゴリーが形成されていった。
さらに、夏の大会で3年生が引退すれば翌年の春まで2学年のみとなるため、秋の公式戦が終わると1年生は横山が、2年生は斎藤が中心となり指導する学年別のシステムを構築する。
そこには、横山のこんな思慮深さがあってのことだった。
「3年の春にAチームに上がっても、たった4カ月しか監督の指導を受けられない。生徒たちは斎藤智也に教わりたくて聖光学院に来てくれるので、できるだけその期間を長くしてあげたい。学年別を採用することによって、ずっと育成チームにいた2年生だって1年近くは監督の指導を受けられ、また違う学びを得ることができるわけです」
Aチームを束ねる斎藤とBチームをたたき上げる横山。聖光学院を築き上げた2人が直接、指導せずとも各カテゴリーで人は生かされている。
聖光学院が甲子園初勝利を挙げた'04年と'05年の夏に甲子園でプレーし、大学を卒業後にコーチとして母校に帰ってきた堺了は、'14年から育成チームの監督を任されている。高校時代から斎藤と横山の薫陶を受け、聖光学院のDNAを宿す指導者は「変な話、野球を教えてないんじゃないかって思うくらいです」とうそぶく。
堺が毎年、育成チームの選手に懇々と説くこと。それは大筋で決まっている。
「自分のストーリーに価値を持たせる取り組みをしていこう」