プロ野球史に残る衝撃のトレード10選 あの大型トレードは、実はWin-Winだった?
60年代~80年代は超大物もトレード市場に
「世紀の大トレード」と呼ばれたこのトレードこそ、プロ野球史上において最初の衝撃の交換トレードだろう。山内は田宮謙次郎、榎本喜八らとともに“大毎ミサイル打線”を形成した。今のFAに似た「10年選手制度」を利用しての巨人移籍は幻に終わったが、阪神に移籍した64年、31本塁打・94打点でセ・リーグ優勝に大いに貢献した。
一方の阪神の小山は、村山実と「両雄並び立たず」の状態だった。移籍の64年はいきなり30勝を挙げ自身初となるパ・リーグ最多勝に輝いた。65年と66年も連続20勝を記録するなど、金田正一(国鉄ほか)、米田哲也(阪急ほか)に次ぐ日本歴代3位の通算320勝をマークした。
1976年/江夏豊・望月充(阪神)⇔江本孟紀・長谷川勉・池内豊・島野育夫(南海)
野村克也の話によれば、「江夏は扱いづらい」と吉田義男監督から電話でトレードの打診があったそうだ。江夏は南海移籍2年目の77年に制定された「最優秀救援投手(パ・リーグ)」のタイトルの第1号となり、以後「ストッパー」の地位を日本に確立させる。
江本は「大エース江夏に見合う交換相手はエモしかおらんやろ」と野村監督に説得されたが、実際はサッチーのベンチ介入の是正を直談判して疎んじられたらしい。それでも「巨人戦で王貞治さんと対決できるから嬉しかった」と言う。南海で4年連続2ケタ勝利、移籍した阪神でも4年連続2ケタ勝利は特筆ものだ。
「空白の一日」で巨人と契約した江川の入団が無効になり、ドラフト会議で改めて阪神が1位指名した。小林と江川は、多くの人が認識違いをしていることがあるが、野球協約上、「新人選手の開幕前トレードを禁じる」条項があり、契約上はそれぞれ2人とも「金銭トレード」での移籍なのである。
復讐に燃えた小林は79年、巨人戦8勝(無敗)を含む22勝(自身初の最多勝)の活躍で、巨人を5位に沈める。小林は巨人で3年連続、阪神で5年連続2ケタ勝利のまま現役を引退した。
江川はプロ2年目の80年と翌81年に最多勝のタイトルを獲得し、8年連続2ケタ勝利のまま引退した。巨人がエース小林を放出してまで欲しがる、さすがの怪物だった。
小林は通算139勝、江川は通算135勝。ドラフト指名に伴う、悲喜こもごもの「人間ドラマ」を生んだ“トレード”であった。
1979年/田淵幸一・古沢憲司(阪神)⇔真弓明信・若菜嘉晴・竹之内雅史・竹田和史(クラウン)
田淵は79年に新設された西武の目玉としてトレードされる。移籍2年目の80年に43本塁打、プロ14年目の82年には念願の優勝の美酒に酔う。広岡達朗監督によれば田淵は「神様、何にもいりません。優勝させてください」とベンチの中で祈っていたという。球団買収した西武は、一方で「九州色一掃」とばかりにクラウン時代の中心選手を放出した。
しかし、阪神に移ったベテラン・竹之内は79年、意地の25本塁打を放つ。若菜はいきなり79年に打率3割、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞するなどレギュラー捕手に定着。若菜と同じ福岡・柳川商高出身の真弓は85年、阪神「猛虎打線」の核弾頭として34本塁打と大活躍。両球団にとって実にWin-Winのトレードであった。
慕っていた稲尾和久監督が86年限りで退任となり、「ロッテに残る理由もなくなった」と落合。ロッテの新監督・有藤道世と、中日の新監督・星野仙一とは68年ドラフトの同期。「巨人に獲られたら10年間優勝できない」と電撃トレードが成立。
落合は中日2年目の88年に四番打者としてリーグ優勝に貢献。以後、各2度の本塁打王、打点王のタイトルを獲得。牛島も87、88年と2年連続でリーグ最多セーブをマークした。上川もレギュラーで活躍。平沼は、89年に与死球から清原和博(西武)と大乱闘劇を演じた。
1989年/西本聖・加茂川重治(巨人)⇔中尾孝義(中日)
西本は、江川卓が87年シーズンを最後に引退し、自分を燃え立たせるライバルの存在がいなくなったせいか88年は4勝と落ち込む。しかし、89年は中日に移籍して、巨人時代の最高18勝を上回る20勝をマークした。翌90年も11勝。通算でもドラフト外入団投手として最多の165勝をマークしたのだから大したものだ。
一方の中尾は、82年の中日優勝時にセ・リーグの捕手として初の「MVP」を受賞し、機敏なプレーで“捕手像を変えた男”と呼ばれた。だが88年優勝時は、強肩の中村武志がレギュラー捕手になっていた。中尾は89年に巨人に移籍。高い素質を持ちながらくすぶっていた斎藤雅樹に対し、「お前の豪球が打たれるわけがない。恐れずに内角に投げ込んでこい」と勇気づけ、2年連続20勝と大投手への飛躍に大きな役割を果たした。89年、90年と巨人も連覇。球史に残る好トレードだった。