「強打智辯を作ったことは1回もない」 名将・髙嶋仁の“その気にさせる”指導術
今回は#1の模様をお届けしたい。両校を全国区の強豪校に仕立て上げた髙嶋さんの指導術とは? 知られざる監督就任までのエピソードや理想のチームづくりなどを交えて紹介しよう。
上重さんが智辯和歌山と対戦した時は…
それもそのはずで、同年夏の甲子園で智辯和歌山は優勝。新チームの立ち上げが遅れ、練習不足の中での激突だった。さらにエースピッチャーが腰痛で投げられず、代わりに投げた投手が打ち込まれた。当時の状況を説明した上で、髙嶋さんは上重さんに言う。
「普通の状態だったらPL学園に勝ってると思う(笑)」
いきなりの先制パンチである。このような感じで、髙嶋さんはユーモアを交えながら監督生活を語っていった。
選手を「絞っていた」
何と言っても強烈だったのは2000年の夏の大会。チーム通算11本塁打&100安打、1試合4本塁打(PL学園戦で!)の大会記録を樹立。真っ赤な「C」の人文字とともに「猛打の智辯」の印象を高校野球ファンに与えた。これらの実績について感想を聞かれると、髙嶋さんは苦笑いを浮かべる。
「戦績とかを目標にやってきたわけじゃないので、別にどうってことない」
これだけの数字を残せたのは選手のおかげとしつつ、本人としては「選手を絞っていた(鍛えていた)」のだという。それはPL学園や大阪桐蔭などといった他の名門校と事情が異なるから。
智辯和歌山野球部に与えられた条件は「特待生なし」「寮なし」「1学年10名(うち県外2名)」というもの。進学校であるがゆえに、スカウティングの際もまずは勉強ができることが最優先。その次に身体の大きさ、大学進学希望かどうかを見るのだという。
「上手、下手はどうでもいい。入ってからなんとかします!」
まさに髙嶋さんの腕の見せ所だったのだ。
指導者を志した理由
「高校2年生で甲子園に出た時にめちゃくちゃ感動したんですよ。歩きながら足が震えたのを今でも覚えています。その時に『今度甲子園に帰ってくる時は指導者として帰ってくる』と決めたんです。この感動を野球を志す後輩に味わわせてあげたい。これは指導者しかない! と」
その後日本体育大を経て、智辯学園野球部との縁ができ、コーチを務めてから1972年に監督就任となる。当時は県大会1回戦、2回戦での敗退が当たり前だった智辯学園。奈良の絶対王者・天理に勝つにはどうするべきか。答えは明確だった。
「天理は4時間練習している。わかった、こっちは倍の8時間やる」
時に深夜まで練習をして鍛え上げ、時に選手がついてこない事態にも陥りつつ、就任から1年で県大会決勝に進出。5年後には甲子園出場を果たした。
エリートではない選手が“絞られて”成長、結果を出していく様に髙嶋さんは「高校生ってすごいな」と思ったそう。ただ、「やっぱり指導者がいいんですわ(笑)」とオチも忘れない。