元日本代表・大竹里歩が全うしたバレー人生 父への反抗、春高での激戦、現役最後の1年で見つけたもの
「私は何て幸せなんだろう、って」
「代々木第一体育館が満員の中で試合をさせてもらった。改めて振り返っても幸せな経験でした」
華やかな景色に胸を躍らせただけでなく、Vリーグでは降格も味わい、左膝に大けがも負った。手術を経て長いリハビリからの復帰後、「ケガをする前よりも活躍する」と並々ならぬ思いで臨むもなかなか出場機会に恵まれず、一度は心が折れかけ、引退も決意した。
まさかその自分が、再び鳥肌が立つような光景を、30歳を過ぎてから佐賀の地で。目の当たりにできる日が来るなど、その時は思わなかった。
「SAGAアリーナでたくさんのお客さんが入っている中でコートに立った時、私は何て幸せなんだろう、って。デンソーや日本代表での経験もすごく貴重でしたけど、SAGA久光に来て、特に佐賀へ来てからの2シーズンは地域の人たちが応援してくれる力を感じながらプレーができた。何も悔いはない、と心から言えるぐらい、幸せな時間でした」
「大竹秀之の娘」から「大竹里歩の父」へ
その後の活躍を知る者からすれば、意外と遅いスタートだったんだ、という程度にしか考えないバレーボールの始まりも、大竹にとっては「反抗期の始まりだった」と笑う。
理由は明確だ。かつて日本代表で活躍した父、大竹秀之氏の存在だった。
「産まれた時から私は“大竹秀之の娘”なわけじゃないですか。それが子どもながらに嫌で。特に中学の頃はピークでした。お父さんと全く話さなかった、と言っても大げさじゃないぐらい、とにかく嫌で嫌で仕方なかった。今思うとひどい反抗期でしたね」
後に高校ではライバルとして春高準決勝で名勝負を繰り広げる幼なじみの鍋谷友理枝と共に、淑徳SC中へ。父譲りの高身長、バレーボール選手としては大きな利点なのだが、当時の大竹にとってはそれもネガティブな要素でしかなかった、と振り返る。
「バレーボール自体は始めたばかりだからヘタクソなんです。でも大きいから使われる。試合に出ても何もできない。しかも試合会場に父が来ればあの身長(208センチ)がだから目立つじゃないですか。当然みんな、え、誰が娘? ってなったところに、デカくてヘタクソな私がいる。その視線が耐えられなくて、父に『もう試合に来ないで』と言った記憶もあります。今思えばひどい言葉ですけど、当時の私は、どうしてこの家に産まれてしまったんだろう、何でバレーボールを始めちゃったんだろう、と思い悩むぐらい苦しかったんです」
変わることができたのは、下北沢成徳高に入学してから。大会になればメディアからは「大竹の娘」と注目されたが、チームメイトや当時率いた小川良樹監督は父やきょうだいが誰であろうと、見るのは目の前にいる本人だけ。むしろ父が試合に来れば、チームメイトからは好奇の目を向けられるどころか、アドバイスを求められた。
「里歩パパに私のスパイクを見てどう思ったか聞きたいんだけど、いいかな?」
「この間の試合、里歩パパどう見てた? いろいろ教えてほしいんだけど」
そこに日本代表でも活躍した経験を持つ人がいて、それがたまたまチームメイトの父親。ならばアドバイスを求めたい、と特別扱いではなく同じバレーボールに携わる同士として接するだけで、特別扱いなど一度もない。中学時代はあれほど気になった周囲の目などどうでもよくなった、と笑う。
「頼られたり、アドバイスを求められることが父も嬉しそうだったんです。そういう姿を見ていたら、私、何を気にしていたんだろう、って。大会に出れば取材の方々には相変わらず“お父さんは”と聞かれましたけど、そう言われることに対しても『私がこれから頑張って、大竹里歩の父、と言わせるので、私を大竹秀之の娘、として取り上げるのはやめて下さい』と言い返したこともありました」