米山裕太が駆け抜けた東レ、代表の19年間 痛みすら「楽しみ」に変えた探求心
「将来はSVのチームの監督になって、リーグ優勝する、という目標があります」
なれる保証はないけれど、と一瞬笑いながらも、スピーチの最後を力強く締めくくった。
「一回りも二回りも成長してまた戻ってこられるように、次のステージでも頑張ります」
日本代表の「苦しい時代」を支えた名手
国内リーグが終われば、日本代表。現役時代はまさにそのサイクルを長年過ごしてきた。見続けてきた多くの人たちには、19年に及ぶ現役生活の中で、さまざまなシーンや試合、その時々の米山が色濃く残る記憶がある。では当の本人、米山自身が現役生活を振り返ったとき、思い浮かぶことは何か。「どの時代も濃かった」と笑いながら、選手として歩んできた日々を3つに分けた。
「最初は東レに入団してからなかなか試合に出られないところから始まって、富松(崇彰)はどんどん活躍して。そういうスタートから試合に出る機会が少しずつ増えて、日本代表にも選ばれて(東レで)キャプテンになった頃までが第一期かな。そこから16/17シーズンの東レでのリーグ優勝までが第二期。代表が終わって、現役引退するまでが第三期。いいときも、苦い思い出ばっかり浮かぶときもある。思い返すとほんとにいろんなことがあったな、って思いますよね」
米山の言葉をたどれば、日体大から東レ静岡に入団したのが2007年。翌年の08/09シーズンでVリーグ優勝を経験し、09年に日本代表へ選出され、世界選手権やワールドカップ、五輪予選にも出場した。東レでは16/17シーズンにもリーグ制覇を成し遂げたが、日本代表ではロンドン、リオデジャネイロと二度の五輪出場には届かず、なかなか勝てない苦しい時代を歩んできた選手のひとりだ。
“ヨネさん”が持っていた「絶対的な安心感」
「基本的に僕は負けず嫌いだから、東レでも代表でも『俺が一番うまい』と思っていたし、何が何でも試合に出たかった。でも2015年のワールドカップで柳田(将洋)と石川(祐希)が出てきて、一緒にやっていてもすごいな、って素直に思いましたね。ディフェンス面、レシーブでは正直自分のほうが負けていないと思っていましたけど、攻撃に関しては強豪国のブロックが2枚、3枚来てもぶち抜いていく。もちろん自分が出たいと思う気持ちはあり続けましたけど、彼らのバレーボールに取り組む姿勢も見て来たし、チームとしても若手から経験のある選手まで共存していた。僕は僕で、どうやったら勝てるか、っていうことをずっと考えながらやっていました」
その姿勢はいつも、試合になれば発揮された。スタートでなくとも、劣勢でも米山が出れば何とかしてくれる。当たり前のように仕事を果たす凄さと抜群の安定感。日本代表では頼れる仲間として、SVリーグの前身であるVリーグでは東レとパナソニック(現・大阪ブルテオン)のライバルとして同じ時代を過ごしてきた清水邦広が証言する。
「国際大会で、ヨネさんが(コートへ)入ってきたときに大型ビジョンに『安心して下さい、日本には米山がいます』って書いたボードを掲げるファンの人が映って、ほんと、その通り、って僕も思ったんです。それぐらいヨネさんはいつも何とかしてくれる、絶対的な安心感がありました。敵でやるのは嫌だったけど、仲間だとこんなに心強い人はいない。ヨネさんはいつも頼れる存在でした」