怒涛の追い上げで入賞を果たした角田裕毅 しかし父の評価はあくまで厳しく

柴田久仁夫

予選で地獄に突き落とされ、決勝レースでなんとか這い上がった。そんな週末を角田は送った 【©Redbull】

「F1初年度のミスを、なぜ今も繰り返すのか」

「課題だらけの週末でしたね」

 F1第7戦エミリアロマーニャGP。予選で大クラッシュを喫した角田裕毅は、決勝レースはピットレーンスタートを強いられた。それでも最下位から粘り強く順位を上げていき、10位入賞を果たす。しかし現地に帯同した父、信彰さんの言葉は厳しかった。

「F1初年度も同じイモラの予選で、同じようなクラッシュをやらかした。まったく不必要なプッシュでした。5年目になって、またそれを繰り返すとはね」

 ちなみに去年10月のメキシコGPでも、角田は予選で攻め過ぎてクラッシュしている。さらにレースではスタート直後の1コーナーで、無理なオーバーテイクを仕掛けてウォールに激突、0周リタイアの最悪の結果となった。ミスを繰り返し、事故の多いドライバーという印象が、セルジオ・ペレスの後任をレッドブル上層部が決める際に、角田に不利な材料となったことは間違いない。

 それでもリアム・ローソンに代わって第3戦日本GPから急きょレッドブルに昇格すると、次戦バーレーンGPで初ポイント獲得、そこから前戦マイアミGPまで3戦連続予選Q3進出と、着実に結果を出していった。

 今回のエミリアロマーニャGPでも、初日フリー走行ではエースドライバーのマックス・フェルスタッペンからわずか0秒092差の8番手につけた。移籍5戦目にして、四連覇中の王者とのタイム差をついにコンマ1秒以内まで縮めて見せた。フェルスタッペンでさえ手を焼くといわれる神経質な操縦性のレッドブルマシンRB21。それを角田は、早くも手なづけつつあるように見えた。

「レース直前の裕毅は、いつもと違う様子でした」

レーシングブルズとはまったく異質のプレッシャーに、角田は晒され続けている 【©Redbull】

 しかし冒頭で述べたように、予選ではQ1アタック直後にマシンを大破させるほどのクラッシュを喫してしまう。

「調子に乗りすぎる性格は、やはり治らないですね」と、信彰さんはどこまでも辛口だった。
 
「たとえば予選Q3の最後のアタックで攻め過ぎたんだったら、まだわかる。でも路面状況も定かでない予選開始直後でしょう。セッティング変更したマシンの感触も、確認できていない。あれだけ経験を積んでも、まだそれがわからないのかと」

 さすがに角田本人も予選後のインタビューでは、「自信を持ちすぎたことが裏目に出た。本当に愚かでした。必要以上に攻め過ぎてしまった」と、犯すべきでないミスを犯してしまった悔恨を滲ませていた。

 それだけに決勝レースに向けてのプレッシャーは、並大抵のものではなかったはずだ。レース直前の角田と会って握手を交わした信彰さんも、「いつもとは違う様子でしたね」という。

「マシンを全損させてしまったとか、初歩的なミスをしてしまったとか、そんな自分への怒りがあったのかもしれません。とにかく調子がいいと、すぐに楽観主義になってしまう。そこが困ったところですね」

 とはいえレースはノーミスの走りで、終盤54周目にはニコ・ヒュルケンベルグを抜いて10番手に。最後は17周もタイヤライフの若いフェルナンド・アロンソの猛追を受けながらも逃げ切り、レッドブル昇格後3回目の入賞を果たした。そこは素直に評価していいのではないか。

 しかし信彰さんは、「僕は裕毅のレースに対しては、あまりそういう見方はしないんですよ」という。

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著者プロフィール

柴田久仁夫(しばたくにお) 1956年静岡県生まれ。共同通信記者を経て、1982年渡仏。パリ政治学院中退後、ひょんなことからTV制作会社に入り、ディレクターとして欧州、アフリカをフィールドに「世界まるごとHOWマッチ」、その他ドキュメンタリー番組を手がける。その傍ら、1987年からF1取材。500戦以上のGPに足を運ぶ。2016年に本帰国。現在はDAZNでのF1解説などを務める。趣味が高じてトレイルランニング雑誌にも寄稿。これまでのベストレースは1987年イギリスGP。ワーストレースは1994年サンマリノGP。

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