なぜレジェンド解説者は自ら「引退」をするのか 中嶋常幸が考えるマスターズ中継の「集大成」

塩畑大輔

沈黙の55秒。神の見えざる配慮

2021年、ウイニングパットを沈めて早藤キャディと抱き合う松山英樹 【Photo by Augusta National via Getty Images】

 初めて解説をしたマスターズ直後、打ち上げの席で流した涙。
 それは限られた関係者だけが知るものだった。

 それから19年。
 中嶋の涙を、比較にならないくらい多くの人が目撃することになった。

 2021年。松山英樹のマスターズ制覇が決まると、解説席で声を詰まらせて泣いた。
 そのシーンは「沈黙の55秒」として、ゴルフファン以外にも広く知られるところになった。

「落語も演劇のセリフも、言葉の強弱の大事さは勉強になりました。さらに言えば、言葉を使わない技術というものもある。沈黙の55秒については、それを狙ってやったわけじゃないけど…」

 中嶋だけではなかった。
 もう一人の解説者であるプロゴルファー宮里優作、そして実況の小笠原亘さんも声を殺して泣いた。結果として、実況・解説席の誰も声をあげない沈黙が生じた。

「あそこで誰かが『良かったですね』って言葉を発してしまっていたら、どうだっただろう? その瞬間、視聴者の皆さんとオーガスタ・ナショナルの間に『太平洋』が出てきちゃったと思う。我に返って、これは地球の反対側で起きていることなんだな、と思い出してしまったんじゃないかな」

 沈黙したからこそ、ファンを我に返らせることなく、映像に没入させられたのではないか。
 見ている全員が、オーガスタ・ナショナルの18番に行くことができた。1万キロの距離も、行く手を遮る太平洋も消えてしまった。中嶋は語気を強める。

「あの沈黙は、今までのマスターズ中継の集大成なのかも、と思う」



 中継に携わるスタッフはみな、マスターズに強い思い入れを持っている。
 30年近い解説歴の中で、中嶋はそれをつぶさに見てきた。

 4月に行われる大会の半年前から、放送スタッフは勉強会を始める。
 かつての中嶋と同じように、中継の録画を見直して、映像選び、言葉選びを事細かく振り返る。

 勉強会の場ではなくても。
 何かにつけて、皆が自然と「来年のマスターズは」と言い出す。あらゆる話題、知識が、マスターズ中継につながっていく。

 TBSという会社自体がそうだ。
 マスターズ中継は、決して採算性が高い事業ではないと、中嶋も聞いている。

 それでも、責任をもって伝え続ける。
 もっと言えば、愛をもって伝え続けている。

 そんな強い思い入れが醸成する空気の中だからこそ。
 あの「沈黙の55秒」は生まれたのだ。

2022年、メジャー初制覇を果たしたスコッティ・シェフラーを讃える前年覇者の松山英樹 【Photo by Jamie Squire/Getty Images】

 そこにはもちろん、中嶋の「思い入れ」も加わっている。

 マスターズがあったから、プロになった。
 マスターズに跳ね返されて、強くなれた。

 強い愛着が、選手としての報いにつながることはなかったけれど。
 めぐりめぐって、中嶋は解説者として「あの日」に立ち会うことになった。

 55秒の沈黙ののち、涙声で絞り出した一言は、こうだった。

「苦しかったのが分かるから」

 松山は4打差首位で、最終ラウンド後半を迎えた。
 だが、15番パー5で迎えたイーグルチャンスで、アイアンショットをグリーン奥の池に外した。

 余力が尽きつつあるのだろうか…。胸が締め付けられるような思いになった。
 自らも、マスターズだけにある「サンデーバックナインの過酷さ」に立ち向かい続け、打ちひしがれてきた。

 そんな中嶋が、解説者として熟練の域に達した上で、沈黙の輪の中心にいた。極めて運命的な出来事、もっと言えば「神の見えざる配慮」のようにも思える。

「もしも10年早く松山選手の優勝に立ち会っていたなら、あの場はああならなかったと思う。そういう意味でも、あの55秒は中継に関わるみんなにとっての集大成だったんじゃないかと思います」

 翌年。松山はディフェンディングチャンピオンとしてマスターズに臨んだ。
 連覇を懸けた戦いは、14位に終わった。これを見届けた中嶋は、TBSのスタッフにこう告げた。

 70歳を区切りに、 マスターズの解説を退こうと思うーー。

筋書きのあるドラマ。神の舞台

2019年、西日が照らす中、ウイニングパットを決めてガッツポーズをするタイガー・ウッズ 【Photo by Augusta National via Getty Images】

 設計家の構想に、年月をへて地盤の変動が加わる。
 そうやって、名門と呼ばれるゴルフ場の特色ができあがる。

「それを、ゴッドメイク、というらしいんだよね」

 なぜマスターズはここまでファンを魅了するのか。
 その問いに、中嶋はポツリと言った。

「ほかのメジャーは競技性のほうが強いんだけど、マスターズはストーリー性、ドラマ性だよね。よく『筋書きのないドラマ』というけれど、マスターズというのは筋書きのあるドラマなのかなと」

「その筋書きは神様しか知らない。あとから『やっぱりあの1打だったね』と筋書きが分かるんだけど、たまに先んじてチラみせをしてくるんだよね。それがとても面白い」

 では、なぜそんなドラマ性が加わってくるのか。
 中嶋は語気を強めて言う。

「これは僕個人の考えになるけど、やっぱりボビー・ジョーンズから脈々と続く努力があるんだと思う。今でこそ押しも押されもせぬビッグイベントなんだけど、そうなるまではアメフトや野球、バスケみたいなほかのイベントと重ならないようにするとか、できるだけアメリカ全土でみてもらえるような時間設定にするとか、ものすごく工夫が凝らされてきた」

 例えば最終ラウンドのスタート時間は、優勝決定がアメリカ東部時間の日没ギリギリになるように設定されている。時差が3時間あるアメリカ西部でも、日曜日午後のいい時間帯にテレビで視聴できるように、という配慮からだ。

「その結果として、優勝シーンが美しい夕焼けに演出されるようになった。夕陽に照らされて18番ホールを上がってくる選手を映し出すあの映像の美しさは、これ以上ないものだと思う」

 大会を盛り上げたいという一途な努力。
 それが結果として、これ以上ないほどドラマチックなシーンをつくり上げることにもつながった。

「選手もそう。ジーン・サラゼン、サム・スニード、ベン・ホーガンやニクラウス、そしてタイガーと、多くのスター選手が優勝争いを演じることで、あらゆる選手が『あのグリーンジャケットがほしい』と懸命に戦うようになった。そういう人間のあらゆる取り組みがあるからこそのゴッドメイク、なのかなと」

神が棲むオーガスタ・ナショナル。最後の解説に臨む中嶋常幸はどんなドラマを目にするのだろうか 【Photo by David Cannon/Getty Images】

 沈黙の55秒もそうだったかもしれない。

 50年を超える制作努力。中嶋をはじめとした日本勢の大会に対する思い入れ。
 それらの積み重ねに「神の見えざる配慮」が加わり、メジャー放送の集大成となった。

「個人的には100点の解説はできたことはないと思っているけど、松山選手やスタッフみんなのおかげで、100点の経験はさせてもらえた。本当に幸せなことだと思う」

 あたりを風が吹き抜ける。折からの強い日差しに、舞い上がる花びらが白く光った。
 見上げると、私設練習場を見守ってきた桜が威容を誇っている。見頃はまさに、これからだ。

 最後のマスターズを前に、中嶋は語る。

「オーガスタの女神、あるいは魔女とか言われるけど、人智をこえた何かも見えてくるのがマスターズ。この大会だけは、神の舞台になっている。そんな気もしますね。ほかのメジャーとは違う」

「僕は去るけど、放送はこれからもずっと続く。マスターズにはそれだけの価値があると、僕は思っています」

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著者プロフィール

1977年4月2日茨城県笠間市生まれ。2002年に新卒で日刊スポーツ新聞社に入社。サッカーの浦和レッズや日本代表、男子ゴルフ、埼玉西武ライオンズなどの担当記者を務める。2017年にLINE NEWSに移籍し、トップページの編成やオリジナルコンテンツ企画を担当。note、グノシーをへて、2024年7月からU-NEXTに所属。

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