なぜレジェンド解説者は自ら「引退」をするのか 中嶋常幸が考えるマスターズ中継の「集大成」
マスターズってこんなんじゃない!
TBSテレビが、マスターズ中継の解説者を務めてほしいとオファーしてきた。
中嶋は断った。
まだ選手として大会に出場したい。そういう気持ちが強かった。
翌年もオファーがあったが、再度断った。
3回目のオファーがあったときに、妻の律子さんが「やってみたら」と勧めてきた。
「お父さんはマスターズの難しさ、素晴らしさを誰よりも知っているじゃない。それを伝えたら?」
確かに、そこには自負もある。
一方、選手としての自負はどうか。
95年のマスターズは、直前に父を亡くしたことで、万全の準備ができなかったと思っていた。
だからもう一度出たい、と。だが、万全の準備ができたとして、自分はあのサンデーバックナインを戦えるのか。
「思い返せば、芝目を読むこともできなかった。出たとしても、予選を通れるかどうか、だろうと」
そうやって、中嶋常幸はマスターズの解説を務めることになった。
1999年、45歳を迎える年だった。
◇
マスターズが、いかに選手にとってやりがいのある大会なのか。
自分なら、誰よりもしっかりと伝えられる。
そう意気込んでいた。
初めてのマスターズ解説席。中嶋はイライラを募らせていた。
このプレーについて語りたい。そう思ったときに限って、実況の松下賢次さんは違う話題を振ってくる。
今度こそ、と思った次の瞬間。
もう一人の解説者であるゴルフジャーナリストの岩田禎夫さんが語りだす。
違う! それじゃない! こっちのほうが大事なんだ!
憤り続けているうちに、4日間の大会が終わってしまった。
放送終了後。中継に携わったスタッフ全員が集まり、打ち上げが行われた。
TBSの経営層も加わり、労をねぎらってくれた。そんな和やかな席で、中嶋は突然号泣した。
「マスターズって、こんなんじゃないんだよ!」
妻がくれた転機。解説者が「勝つ」必要性
中嶋はあきらめていた。社長もいる場で、あれだけ取り乱してしまったのだ。
初夏を迎えたころ。
妻の律子さんが「マスターズ中継の録画を観てみない?」と言ってきた。
大会直後なら、怒って断っていただろう。
3カ月くらい経って、だいぶ気持ちの整理がついていた。決して気乗りはしなかったが、録画を観てみることにした。
愕然とした。
「こんなんじゃないマスターズ」にしていたのは、他でもない自分だった。
「放送全体を僕がぶち壊していました。言葉に自信はないし。だからやたらとお二人に同意を求めるし。お二人にさえぎられていると思っていたんですが、むしろ僕がお二人の話をさえぎるようにしてしゃべろうとしているし。もうひどいんですよ。これはオレがダメにしたんだ、と」
驚いたことに、TBSは翌2000年のマスターズ解説をオファーしてきた。
受けるにあたってまず、中嶋は岩田さん、松下さんに深く謝罪をした。それが順序だと思った。
当時の中継の責任者だったTBSスポーツ局長、林原博光さんが「紹介したい人がいる」と言ってきた。
引き合わせてくれたのは、落語家の立川志の輔さん。そして脚本家の倉本聰さんだった。
噺家の「間」。そして脚本家の言葉選びは、解説の参考になる。
林原さんの意図を汲んで、中嶋は演芸ホールや劇場に足を運んだ。
「中嶋さん、何とかして勝ってください、って言うんだよね」
当時、中嶋は人生3度目のスランプに陥っていた。
1995年に父を亡くして以来、国内ツアーでも6年以上も勝利から遠ざかっていた。
すでに47歳。
スランプではなく、キャリアの終焉だとみる向きも多かった。そんな自分に、勝てというのか。
「それは分かります。でも、マスターズの解説を聞いている人が今後も『中嶋が言うんだからそうだろうな』って思うために、あなたには勝つ必要がある。林原さんはそう言ってくれた」
2002年5月。中嶋はダイヤモンドカップで7年ぶりのツアー優勝を果たした。
さらに11月の三井住友VISA太平洋マスターズで、シーズン2勝目まで挙げてみせた。
「もちろん、解説として自分が話していることが100%あっているということは、基本的にはないと思う。でも、優勝をしたことで、少なくとも自分が話すことに対する迷いはなくなりました。人生3度目のスランプを乗り越えたことも、自信として解説に乗っていったかもしれない」