なぜレジェンド解説者は自ら「引退」をするのか 中嶋常幸が考えるマスターズ中継の「集大成」

塩畑大輔

解説者として最後のマスターズに臨む中嶋常幸は今、何を思うか 【撮影:U-NEXT】

 この日満開を迎えた見事な桜が、あたたかい春風に潔く花びらを散らしている。

 4月7日、千葉県内の私設練習場「練正館」。
 中嶋常幸は日差しに目を細めながら、芝生の上に設けられたインタビューの席についた。

 前日、マスターズの中継を行うTBSテレビが、ある発表をしていた。
 長年、解説を務めてきた中嶋常幸が、今回大会限りで「引退」をするというものだった。

「最初はね、本当にうまく行かなかった」

 苦笑いしながら、遠い目で振り返る。

「初めてのマスターズ解説が終わった後の打ち上げの席だよ。僕はみんなの前で、泣いてしまった」

マスターズに憧れ、マスターズに打ちのめされて

1972年、グリーンジャケットに袖を通すジャック・ニクラウスに中嶋常幸は憧れた 【Photo by Augusta National/Getty Images】

 1963年。東京放送(現・TBSテレビ)が、国内でのマスターズ放送を開始した。
 日本で海外メジャーが放送されること自体、初めてのことだった。

 当時はまだ、生中継ではなかった。
 大会翌週にゴールデンタイムで流れてきた映像で、常幸少年は初めてマスターズに触れた。

 美しいコースの中で、ゴルフ雑誌で目にしていた世界のスターたちがプレーをしている。
 ああ、どちらも実在したのか。映像でみることで、強く実感できた。

 最も強く印象に残っているのは1972年大会、ニクラウスの優勝だ。
 最終日の16番パー3。手前から強い傾斜をのぼるロングパットをねじ込み、皇帝と呼ばれた男は天を仰ぎながら拳を突き上げた。

「本当にカッコいいなと。そして、その舞台のマスターズ、オーガスタ・ナショナルは別世界だと感じました。世界にはこんな場所があるのか、と」

日本アマを制した18歳の中嶋常幸 【本人提供】

 ニクラウス優勝を観た翌年、18歳の中嶋は日本アマのタイトルを勝ち取った。
 21歳でプロになると、2年目には国内メジャーの日本プロで優勝。翌1978年のマスターズに招待された。

 向かうところ敵なしの快進撃。
 マスターズを前に、中嶋はコーチだった父の指示で「優勝を目指す」とコメントした。

「親父としては、そういう気持ちで行かないと戦えない、ということだったんだと思います」

 そうした勢いは、早々に挫かれた。
 大会開幕を待つまでもなかった。

「現地に行ってみて、なんだこれは、と。周りで打っている選手がすごいわけですよ」

 当時のゴルフツアーの練習場では、ショットを狙う位置にキャディを立たせるのが一般的だった。
 一緒に回った世界のスター選手たちはみな、キャディの足元にボールを運び続けていた。

「僕だけですよ。他の選手のキャディの方に飛んでいく。150ヤードくらいなら何とかなるけど、200ヤードになると隣の隣くらいのキャディの位置までそれてしまう」

 現地で契約したキャディは、それ続ける中嶋のボールを追って右往左往し続けた。
 そして最後は、疲れ切ってふてくされたのか、目も合わせてくれなくなった。

1978年、初のマスターズに挑む当時23歳の中嶋常幸 【Photo by Augusta National/Getty Images】

 大会が始まった。
 中嶋はさらに打ちのめされた。

 初日から大きくスコアを崩し、出遅れる。
 大会に慣れてきた第2日は、スタートから意地でアンダーパーのプレーを続けたが、その先に最大の悲劇が待っていた。

 13番パー5。中嶋は13打の大たたきをした。

 小川に2度もボールを落としただけではない。
 ミスショットが自分の身体に当たって2罰打。さらにその悔しさから、ショット時以外はクラブのソールを触れさせてはいけないペナルティエリア内の地面を思わず叩いてしまい、さらに2罰打を重ねた。

「あまりに罰打が多すぎて、自分が何打だったのかすぐには分からなかった。確か同組がビリー・キャスパーだったんだけど、次のホールをプレーしながら『これが2罰打、あれが2罰打』と一緒に数えて直してくれて」

 合計13打、と分かったころには、15番の第2打地点までプレーは進んでいた。

 こうして、中嶋の初めてのマスターズは終わった。

サンデーバックナインを戦う力

1986年のマスターズで優勝争いに絡んだ中嶋常幸 【Photo by Augusta National/Getty Images】

 帰国後。中嶋はコーチである父の元を離れ、独立をした。
 もっと科学的にプレーを突き詰めないと。そう思ったからだった。

 アメリカツアーにも積極的に参戦。
 やがて、 海外メジャーでも頻繁に上位に顔を出すようになった。

 1986年。中嶋はマスターズ制覇へ、最大のチャンスを迎えた。
 最終日の前半を終えた時点で、首位のニクラウス、ノーマンとわずか2打差に迫っていた。

 だが、この時点で中嶋はすでに「限界」を感じていたという。

「松山選手が以前『オーガスタは99%のショットでは跳ね返されて、0点の結果になってしまう』と言っていたけど、僕もその通りだと思う。常に100%を求められ続けるのがマスターズ」

 63ホール目まで、中嶋は通算1オーバーで優勝争いに踏みとどまっていた。
 それはつまり、100%のショットを253打重ねてきたということだ。

「サンデーバックナインは本当に苦しかった。スコアを伸ばしていく余力は、もうなかったよ」



 余力を失う、というとスイングが力を失うイメージだが、そうではない。

「違うんだよ。できなくなるのは、ピアニッシモ。全部フォルテになっちゃう」

 必要以上に力が入ってしまうのを、まったく抑えられなくなる。
 因縁の13番パー5。第2打を残り180ヤードにつけるチャンスを迎えた。

 6番アイアンを抑えめに打つことでピンを直接的に狙える距離。イーグルなら、一気にトップに並ぶ。
 だが、第3打のスイングは、普段の軽やかで美しい動きとはほど遠かった。

「そこらへんのターフを全部持っていくつもりか、みたいな力んだショットで左に外して、ただのパー。あそこを取っていたら、優勝の可能性は十分すぎるほどあったのに」

 最終的に8位に入った。それでもなお、である。
 中嶋はマスターズから、再び厳しい現実を突きつけられ続けた。

1995年、長男の雅生さんをキャディにして練習ラウンドをする中嶋常幸 【写真は共同】

「あそこでやり遂げられなかったというのは、その後のゴルフ人生の大きなエネルギーになったと思います」

 中嶋はそう振り返る。

 全米プロでの3位をはじめ、海外メジャー4大会すべてでトップ10入りを果たした。
 のちに松山英樹が達成するまで、日本人として唯一の偉業だった。その原動力は、マスターズがくれたものだった。

 最後のマスターズ出場は1995年。
 直前に亡くした父の遺影を忍ばせたバッグを、中学3年生の長男・雅生に担がせて。40歳の中嶋は「親子3代」でゴルフの祭典に臨んだ。

 前年の全米プロ、全英オープンと、中嶋は海外メジャーでもしっかりと予選を通過し続けていた。
 だが、3年ぶりに訪れたオーガスタ・ナショナルはこのとき、正直にこう告げてきた。

 あなたにはもう、サンデーバックナインを戦える力はない――。

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著者プロフィール

1977年4月2日茨城県笠間市生まれ。2002年に新卒で日刊スポーツ新聞社に入社。サッカーの浦和レッズや日本代表、男子ゴルフ、埼玉西武ライオンズなどの担当記者を務める。2017年にLINE NEWSに移籍し、トップページの編成やオリジナルコンテンツ企画を担当。note、グノシーをへて、2024年7月からU-NEXTに所属。

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