書籍『ジャイアンツ元スカウト部長の回顧録』

巨人が狙った大田&長野W獲り 元スカウトが明かす失敗の裏事情と2度の謝罪

長谷川国利

【写真は共同】

 横浜の敏腕スカウトはなぜ巨人へ移籍したのか?今明かされる長野久義、菅野智之獲得の舞台裏。30年にわたるスカウト人生の一部を綴った『ジャイアンツ元スカウト部長のドラフト回想録』(長谷川国利著)から2008年のドラフトに関するエピソードを抜粋してお届けします。

能力の高さに驚かされた中学時代の大田

 この年から高校生と大学生・社会人も一緒になり、逆指名もない統一ドラフトとなりました。やっと本来あるべき形に戻りましたし、そう感じていたスカウトも多かったことでしょう。逆指名の撤廃はもちろんですし、入団してから一緒の土俵でやるのに高校生の1位、大学生・社会人の1位みたいに分けるのはおかしな話です。個人的には昔やっていたように、1位だけではなく2位以降も全部一斉に入札して重なったらくじ引きを繰り返すやり方が良いと思っています。その方がどの球団が誰を高く評価していたかということが分かりやすくて明確。実は次に誰を狙っていたみたいな話もなくなって、スッキリするのではないでしょうか。

 この年は2年前に巨人入りを熱望しながらホンダに進んだ長野久義を高く評価していました。しかし苦渋の決断の末に最終的に1位指名したのは東海大相模の大田泰示でした。これには私も深くかかわりました。そもそもの始まりは原さんが監督から離れていた時期、広島で野球教室をした時に遡ります。

「凄い中学生がいるから見に行った方がいいんじゃないか?」と原さんから言われ、実際に練習を見に行くことになったのです。『松永ヤンキース』という軟式のクラブチームが練習するそれなりに広いグラウンドで、ホームランをぽんぽん放り込んでいる選手がいました。それが大田でした。体が大きく、投げるボールには強さがあって、おまけに足も速い。中学生の中に1人だけ高校生が入っているように見えました。すぐに原さんに報告を入れましたし、原さんを通じて東海大相模の門馬敬治監督(現・創志学園監督)にも話は行っていたと思います(ちなみに門馬君は私の高校、大学の後輩にあたります)。

 そんな繋がりから、大田は翌春に東海大相模に入学することになったのです。

失敗に終わった大田、長野のW獲り

 大田の高校時代で印象に残っているのは宮崎商から1位でヤクルトに指名された赤川克紀と対戦した練習試合です。フルカウントから何球も粘って、東海大相模のグラウンドのバックスクリーンの後ろにあった寮を越えていくホームランを打ちました。長年色んな選手を見てきましたが、あそこまで飛ばしたのは大田だけです。このホームランを一緒に見ていた広島スカウトの苑田さんは門馬君に「プロに行くと言うなら広島は今この場で1位に決めるよ」と伝えるほどでした。門馬君の下で順調に成長した大田は1位でなければ獲れない選手になりました。

 長野も社会人で活躍して、もはや上位でなければ獲れない選手に成長していましたから頭を悩ませることになりました。大田と長野、どうにか2人獲れないものか……。

 最終的にはこう考えました。長野は一度指名を拒否しているわけですから、他球団からするとまた拒否されるリスクがあるために貴重な1位を使ってまで指名はしないだろう。一方で大田は2位では絶対に獲れない。そこで大田を1位、長野は2位。大田が抽選になって外した場合は長野を繰り上げて1位指名するという戦略になりました。

 大田には複数球団からの1位指名の可能性がありましたから、当初は東海大への進学希望を表明させたり、プロ志望届もギリギリまで出させなかったりと、できる限りの対策を講じて他球団に「大田はプロには行かないぞ」と匂わせました。その影響かは分かりませんがドラフト直前になって熱心だった中日が降りました。

 ところが最後まで降りなかったのがソフトバンクでした。「重複指名があるとすればソフトバンクしかないだろう」という思いもあったとはいえ、この指名には正直驚きました。というのも、大田の両親に会いに頻繁に広島まで行ってコミュニケーションを取っていましたし、松永ヤンキースの監督ともやりとりをしていました。門馬君は高校、大学の後輩ですから当然連携も密でした。親御さん、中学の監督、高校の監督とこれだけやりとりをしていても「ソフトバンクが来ている」という情報が掴めなかったからです。ソフトバンクとしても勝算がなければ指名はしてこないはずですから、それを考えると我々と全く別のルートから大田の関係者に接触して「ソフトバンクなら入団してもらえる」という良い感触を得ていたのかもしれません。もしかしたら、王会長も動いていたのかもしれませんね。

 ソフトバンクの指名に驚きつつも、抽選で原監督が見事に引き当てて大田を無事に獲ることができました。巨人は坂本がショートに定着していましたから、大田がサードに入って坂本と三遊間を長く組んでくれたら、そんな構想を描いていました。

 ドラフトが終わった後、しばらくしてから夜中に清武さんから電話がかかってきたことがありました。何ごとかと慌てて出ると、「松井秀喜からも了解を得て背番号は55に決まったから、大田の両親や関係者にも伝えてほしい」ということでした。まさかそんな電話が夜中にかかってくるとは思っていなかったので、びっくりしました(笑)。それだけ清武さんも、球団としても期待が大きかったことは間違いありません。私も担当した選手にはピッチャーなら一軍で初勝利、野手なら初ヒットを打ったら「連絡をくれよ」ということをいつも話していましたが、大田には「初ヒットでの連絡はいらないから初ホームランを打ったら連絡してくれよ」と言ったほどでした。

 大田は期待に応えるように、1年目から打率こそ低かったですが二軍でホームランを17本打ちました。高卒でいきなりここまで打てる選手はそうはいません。ただファームで結果を出して一軍に上がっても、当時の一軍首脳陣が求める打ち方と自分の打ち方が合わず、フォームを崩したということがあったようです。3年目までは一軍で僅かに35打席しか立つことができず、プロ初ホームランは4年目でした。連絡をもらった時は「ずいぶん長く時間がかかったなぁ」というのが正直な気持ちでした。結局巨人に在籍した8年間で放ったホームランは9本だけ。あれだけのポテンシャルがある選手でもプロで活躍することは簡単ではない。そんなことを改めて思いました。性格も真面目でしたから、多くの人から色んなアドバイスを受けて「バッティングが分からなくなっている」とも言っていました。もう少し上手く聞き流せるような、良い意味でいい加減な部分があったら、また違った結果になっていたかもしれません。

 2017年に日本ハムにトレードで移籍した大田は、新天地でレギュラーの座を掴みました。広い札幌ドームを本拠地にしながら4年連続二桁ホームランを記録するなど、ようやく本来持っている力を発揮してくれました。日本ハムで活躍してくれた時は本当に嬉しかったですね。これは大田に限ったことではなく、他球団に移籍しても担当した選手が結果を残すのは喜ばしいことです。他のスカウトも皆そうだと思います。

「1位ではいけないけど、2位では指名するから」という話を事前に知らされた長野の反応は、「えぇ……」というものでした。社会人で結果も出していましたから当然です。私も心苦しく思いながら伝えました。

 2年待ったのに1位ではない――。

 このとき「分かりました」という明確な返答はありませんでしたから、長野も相当ショックだったと思います。私は長野の妹さんにも連絡をとりながら、どうか2位での指名になってしまうことを理解してもらえるよう、本人への説得をお願いしました。

 阪神が「巨人が1位で長野を獲らないなら2位でいく」みたいな報道もありました。他球団からすれば、本来1位の選手2人を巨人に獲られてなるものかという思いもあったと思います。私も横浜時代に同じような考えでしたから気持ちはよく分かります。ところが、2位で指名したのは阪神ではなくロッテでした。断られるリスクはあるけれど、一度拒否して年齢も重ねているわけですから、説得できるのではないかという思惑もあったのだと思います。実際、長野の家庭の事情もあって、一時はロッテ入団に傾きかけているという話もありました。しかし、最終的には断ってもう1年ホンダに残る道を選んでくれました。こちらとしては二度目も獲れなくて本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

 私と山下部長はロッテへの入団拒否が正式に決まった後、福岡県久留米市にある長野の実家を訪れ指名できなかったことをお詫びしました。2年前に続いて二度目の謝罪でしたから、お父様も大変怒っておられました。当たり前です。

 来年、長野を確実に指名するためにはどうするべきか? 三度目の獲り逃しは許されない。そんなプレッシャーが私の肩に重くのしかかっていました。

書籍紹介

【画像提供:カンゼン】

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横浜の敏腕スカウトはなぜ巨人へ移籍したのか?
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ホエールズ・ベイスターズ、ジャイアンツ
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