選手の能力を発揮させ、チームを勝利に導く監督とコーチ 「箱根駅伝」知られざる裏方たちの奮闘記

柴山高宏(スリーライト)
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提供:トヨタ自動車

神奈川大学の大後栄治人間科学部教授 陸上競技部部長 【撮影:熊谷仁男】

 1920年に第1回大会が開催され、2024年に記念すべき100回目を迎えた箱根駅伝。

 正月の風物詩となって久しいこの大会は、主催する学生自治団体である一般社団法人関東学生陸上競技連盟(以下、関東学連)の学連幹事、各大学の主務、マネージャーといったサポートスタッフはもちろん、警視庁と神奈川県警察の白バイ隊員や沿道の自治体、大会関係車両を提供し、ドライバーを派遣しているトヨタ自動車をはじめとする企業など、実に多くの裏方によって支えられている。

 この連載では、箱根駅伝を支える裏方たちによる、知られざる物語を紐解いていく。第4回は、低迷していた神奈川大学を箱根駅伝で2度の総合優勝に導き、マラソン日本記録保持者の鈴木健吾ら名選手を輩出した大後栄治前監督(現部長兼総監督)と、山梨学院大学在学中に上田誠仁監督(現顧問・中距離コーチ)から薫陶を受け、現在はトヨタ自動車陸上長距離部でコーチを務める辻大和に、選手のパフォーマンスを最大限に発揮させ、チームを勝利に導くマネジメントについて聞いた。

学生監督が箱根駅伝で総合2位に

「第100回大会終了後に後進に道を譲るということは、5年前くらいから考え始め、準備を進めてきた。箱根駅伝には日本体育大学の学生時代である1984年の第60回大会から41年間、携わってきたが、監督を辞めることに迷いも寂しさもなく、とても晴れやかな気分だった。もう、完全にやりきった」

 神奈川大の大後栄治前監督(現部長兼総監督)は、2024年の第100回箱根駅伝をもって勇退を決断した経緯を語った。
 大後が箱根駅伝に魅了されたのは、高校3年生のときのこと。陸上競技部に所属していた大後は、春から入学する日体大のOBに誘われて、箱根駅伝をはじめて現地で観戦した。大後が見た83年の第59回大会は、谷口浩美や大塚正美らスター選手を擁する日体大が2区以降、一度も首位を明け渡すことなく完全優勝。「あまりの凄さに圧倒されてしまった」という。

 大後が入学したときの日体大は強豪でありながら監督とコーチが不在で、練習メニューの組み立て、大会に出走するメンバーの選考と戦略の考案、有力高校生のスカウトといったあらゆることを、学生主導で行っていた。

 大後は選手として入部するも、高校時代から苦しめられてきた故障が再発。当時の日体大は長距離ブロックだけでも部員数が100人を超え、このままではBチーム、Cチームの選手で終わることは目に見えていた。将来的には教員として陸上競技の指導に携わりたいという思いもあった。そして、先輩マネージャーから「大後、やってみないか」と勧誘されたことを機に、決断。1年の秋で選手生活に区切りをつけ、マネージャーとしてチームを支える側に回ることになった。

「やってみると、これが実におもしろくて」

 徐々に責任のある仕事を任されるようになり、最高学年になると学生マネージャーの長にあたる主務になった。主将とともにチームをマネジメントし、実質的な監督代行として指揮を執り、全日本大学駅伝を制覇。箱根駅伝では往路優勝、総合2位に輝いた。学生主導のチームであることを考えると上出来だと思うが、大後には悔いが残った。

「口には出さなかったけど、箱根駅伝では総合優勝を本気で狙っていたし、行けるという感覚もあったが、出走する選手全員のコンディションの維持で甘さが出てしまった。ただ、日体大での4年間で、学生とは思えないようなことまで経験できて、チームをマネジメントするおもしろさをこれでもかと味わえた。今、振り返ってみると、この経験が監督・コーチとしての私の礎となったと思う」

 日体大卒業後は同大大学院で運動生理学を専攻。修了後、長距離の指導者を求めていた神奈川大学陸上競技部で、コーチに就任した。

第72回大会での棄権の真相

取材に応じる大後栄治 【撮影:熊谷仁男】

 大後がコーチに就任した89年の神奈川大は、箱根駅伝の本大会から15年も遠ざかっていた。

「ケガが多く、本当に長距離の選手なのかと思うような体型の選手もいた。生活はずさんで、合宿所がないので食事もバラバラ。朝練習をやると言っても、ほとんど来ない。何よりも気になったのが、選手の目に覇気がないこと。本選を目指すどころではなかった」

 どうしたものか……。大後は悩んだ末に、母校である日体大のスポーツ心理学の専門家・長田一臣のもとを訪ね、助言を請うた。そして、長田の著書『スポーツとセラピー』に目を通すことを勧められた。モチベーションマネジメントの手法を学んだ大後は、練習を一旦中止して、選手1人ひとりと面談をする時間を設けた。「スポーツ推薦で入学し、箱根駅伝への出場を期待されながらも、予選会すら通過できない現状に選手たちは苦しんでいた。これでは練習に身が入らないのは当然だと思った」。

 前述の著書で学んだモチベーションマネジメントと、日体大の学生時代に培った大後のコーチングがフィットして、神奈川大は92年に本大会復帰を果たす。本大会では15校中14位という結果に終わったが、「予選会を通過するまでの3年間は、私の監督・コーチ人生の中で最も印象に残っている」という。

 翌年の第69回大会で総合8位、第70回大会で7位、第71回大会で6位と、強化は着実に進んでいった。合宿所こそまだなかったが、部員たちはアパートで共同生活を行い、キャンパス近くの喫茶店が食事を提供してくれるようになった。ただ、練習拠点が整備され、練習量が増えたことで、オーバーワークになる選手が散見されるという別の問題も見られるようになった。そして、山梨学院大学、早稲田大学、中央大学と並ぶ4強の一角として臨んだ第72回大会で、悲劇が襲った。

 2位で迎えた4区の高嶋康司が首位を走る早大を捉えるべくスタートを切るも、2km地点で左足を引きずるように歩きだしてしまう。大後は、懸命に歩を進める高嶋に、併走していたジープから声をかけ続けたが、6km付近で高嶋を抱き留め、神奈川大は棄権となった。高嶋は左足を疲労骨折していた。

「ここで棄権したところで崩れるようなチームではないという確信があったので、冷静に判断を下すことができたし、ちゅうちょもなかった。このとき、中継車のビデオカメラのランプが点灯しているタイミング、つまり生放送されている瞬間を見計らって高嶋を抱き留めたのだが、それはチーム全体にこの瞬間を認識させるという狙いがあった。それくらい、当時の私は冷静だった」

 公式記録としては認められていないが、5区の近藤重勝はこの状況下にもかかわらず、区間2位相当のタイムで好走。翌日も7区の渡辺聡、9区の重田真孝が実質区間賞の走りで、チームは復路2位に相当する記録をマークした。

「大会終了後、私から選手を励ましたり、声をかけたりすることはなかった。選手全員が今、何をしなければならないかわかっていたので、そんなことをする必要がなかった。それくらいチームの雰囲気が良かったし、主将のキャプテンシーの重要性をこれほど感じさせられたこともなかった」

駅伝は究極のチームスポーツ

 神奈川大は翌97年の第73回大会で初優勝。予選会出場校が箱根駅伝で総合優勝を果たしたのは、これが初のことだ。大後が監督に就任して臨んだ98年の第74回大会でも優勝し、神奈川大は箱根駅伝での連覇を達成した。

「大会終了後、東京駅から優勝旗とカップを抱えて京浜東北線に乗って帰ってくる途中、いろんな人から『おめでとう』と祝福されたし、大学関係者もOBも大喜び。箱根駅伝の持つ力の凄まじさを感じた」。

 連覇を達成した98年のときのこと。大後と神奈川大の選手たちが東神奈川駅で降りて、いつものようにマイクロバスに乗ってキャンパスに戻ろうとしたところ、サプライズが待っていた。

「いつものバスの代わりに、トヨタ自動車の真っ赤なオープンカーがとまっていた。私たちがきょとんとしていると『乗れ、乗れ』と言われ、祝勝パレードが行われた。神奈川県警の先導のもと、東神奈川駅から白楽駅の六角橋商店街の方に向かっていると、沿道にはもの凄い数の人がいて、みんな大喜び。私はこのパレードのことを知らなかったので、密かに準備をしてくれていたんだと思う。本当に驚いた」

98年第74回大会直後に行われた優勝パレード 【写真提供;神奈川大学】

 2000年代中盤以降、神奈川大は箱根駅伝でシード権をなかなか獲得できない状況が続いている。近年は、マラソン日本記録保持者の鈴木健吾が2区で区間賞を獲得した、17年の5位が最高位となっている。

「ある時期を境に、チーム全体を尊重する方向から、選手の個性を尊重する方向へ、選手とのコミュニケーションは変わってきた。私は前者を重んじる環境で育ち、成功体験を得てきた指導者。このことが指導の先入観となりつつあることが自覚できたことも、監督業を辞して後進に託そうと思った理由のひとつ」

 箱根駅伝はコースが見直され、勝つために求められる選手の資質も、選手の気質も変わった。近年は若い指導者が次々に台頭しており、箱根駅伝は盛者必衰の様相を呈している。日体大、そして神奈川大で41年もの間、その変遷を見つめてきた大後に、これまでの指導歴の中でぶれることなく持ち続けてきた信念はあるか、尋ねた。

「ゲシュタルト心理学のように、チーム作りは選手個々の足し算ではなく、掛け算で全体を捉えるということ。選手が20人、30人と集まれば、確実にさまざまなことに影響を及ぼしている。そのことを痛感させられたのは、箱根駅伝で棄権した96年度の主将を務めた榊政博のキャプテンシーによって、チームの雰囲気が格段に良くなって、チーム力が何倍にも膨れ上がっていく様子を見てきたから」

「榊は箱根駅伝で走ることはできなかったが、それでも主将として立派にチームに貢献してくれた。箱根駅伝は、エントリーされた16人の選手だけで競うのではない。個人種目のように思われるかもしれないが、仲間を信じて『たすき』をつないでいく駅伝は、究極のチームスポーツだと思っている」

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