キーマンが語る町田のJ2制覇とJ1昇格 奥山主将が振り返る変化、競争と感謝
夏場の減速を乗り越える
奥山は18年にもJ2の優勝争いを経験していた 【(C)J.LEAGUE】
2018年はライセンスもなくて、J1昇格を目標にやっていたのでなく、とにかく目の前の試合を必死に戦っていました。もちろん今年も必死でしたけど「J2優勝・J1昇格」という大きな目標を掲げながらの首位でした。ちゃんと狙って、チームとしてそれを目標に据えた中での首位です。プレッシャーに感じるときもありましたけど、自分たちの力を出すことができれば、首位にいられるという自信もありました。差が縮まるときはありましたけど「最終的に首位に立っていればいい」「きっと首位に立てる」というみんなの自信が、優勝につながったと思います。
――7月から9月にかけて勝ち点獲得のペースが落ちました。8月にはエリキ選手のケガもあって夏場は苦しい時期だったと思います。
日本の夏の難しさは、このスタイルを志向すると避けては通れない道だと思います。エリキは本当にチームを先頭で引っ張ってくれた、大きなものを与えてくれていた選手だったから、間違いなく痛みはありました。でも離脱した次の試合でモンテディオ山形に5-0で勝てたことが大きかったです。
今年は連敗がなかったですし、「ここは負けられない」という節目のゲームで、しっかりと結果をモノにできたことが大きかったですね。夏場も根本はブラさず、シーズン当初から掲げたていたものをやり通したからこそ、(10月14日の)秋田戦も本当にギリギリの戦いを勝てて、そのまま最後まで連勝できたのかなと思います。
「勝負強さ」の理由は?
黒田監督の手腕も「勝負強さ」の一因だが 【(C)J.LEAGUE】
なかなか難しいですけど……。でも負けた後のゲームでも、それほど引きずらずにやれて、「自分たちの力を出せば勝てる」という自信がありました、なので、特別焦ることもなかったです。
――負けた後には黒田監督も(金)明輝コーチも選手には厳しく言いますよね?厳しく言いつつ、自信までは失わせない言い方があったわけですか?
黒田さんの「悲劇感を揺さぶる」という話は、メディアにも出ていましたけど。そういうのも煽られながら、一方で選手同士では「大丈夫」と励まし合えていました。もちろん引き締めることは大事ですし、それがあったからこその結果だとは思います。でも選手たち同士で一緒に良い声をかけながら進めて、そのバランスが良かったのかなと思います。
――チームを取材していて夏場以降は戦術的な引き出しが増えた印象を受けました。攻撃はボールを持つ、動かす部分にもトライしていたと思いますけど、選手としてはどう感じましたか?
練習の中でそういうトライはシーズン序盤より確実に増えていました。ただゲームの中でそれが発揮できたかといえば、そうではないと思います。例えばクサビを付けて、そこに絡んでというようなシーンは、なかなか試合で出せなかった。でも結果として僕たちはJ2を勝ち取ったので、リスクを取るところと、相手の嫌がることをする部分のバランス、選択が今年はうまくいきました。
かといってもJ2で通用したサッカーがそのままJ1で通用するとは全く思いません。自分たちの引き出しを増やしていく取り組みは、選手としても必要性を感じている中で、コーチ陣が色々と提示してくれていました。それもありがたい部分でした。
競争の中で
奥山は途中加入の後輩・鈴木準弥(左)と右SBの定位置を争った 【(C)J.LEAGUE】
彼が素晴らしい選手というのはもちろん知っていましたし、最初に来ると聞いたときは「これはヤバいな」と(苦笑)。ただ僕とは違った強みを持った選手ですし、チームとしては彼の加入で、総合力が間違いなく上がりました。このチームにもたらした力は大きかったと思います。
――「裏MVP」ではないですけど、キャプテンから見て「実はこの選手が大切な役割を果たした」という存在は誰ですか?
やはり(中島)裕希さん、(太田)宏介くんのベテラン2人は存在感が大きかったです。宏介くんは終盤の試合に出ましたけど、なかなか出られない時期が続く中で若手でも息が上がるような練習でも手を抜かず、盛り上げながら精力的に動いていました。そういう姿を見て、みんなも刺激をもらいながら進んでいけました。
あとは (高橋)大悟ですね。開幕はスタメンで出て、そこから良い時期・悪い時期を過ごしながら、苦しいときも腐らず仲間を思ってプレーできていました。試合中も周りに声をかけながらプレスのスイッチを入れたり……。足元にボール入ったときの左足の技術とか、そういうピカイチの部分を出しつつ、どんなことも厭わずにやれる姿勢がありました。「本当にサッカーが好きなんだな」と思わされる存在でもありました。あいつが熊本戦でゴールを決めたときは嬉しかったですし、みんなとのつながりを強めてくれた存在です。
移籍した深津康太への思い
背番号5の深津康太(現・岩手)も今に至る立役者 【(C)J.LEAGUE】
「町田と言えば深津康太」というくらいの存在だったと思います。さっきは名前を挙げなかったですけど、そのベテラン選手たちの中にはもちろん康太くんも含まれています。練習中から一番声を出していたのは康太くんでした。若手であろうと、ベテランであろうと、本当に誰にでも手を差し伸べて「一緒に頑張ろうぜ」って言える兄貴分の役割をしていた選手だと思います。
移籍は寂しかったですけど、でも康太くんは「練習で誰も手を抜かない町田」を作り上げた存在です。そういう思いをしっかりと受け取って今年は進めてこられたし、これからもそれを続けていかないといけないと思います。「常に100%」「味方を思いやりながらやれるチームだ」という康太くんが作り上げた文化を、ずっと残せればいいですね。
――ユニフォームを着たのには、そういった感謝の思いからですね。
もちろんそれもありますし、家族ぐるみで仲が良かったので、深津さんの奥様から受け取っていたんです。「昇格の場にはいられないけど、もし迷惑でなければ、このユニフォームを使ってもらえれば」と岩手へ移籍するときに言われて。優勝してから出せればいいかなと思っていました。
昇格の喜び、そして感謝
これまでの奮闘、貢献が報われた栄光だった 【(C)J.LEAGUE】
長年J1で活躍する同期も見て、そこで活躍することが自分の最大の目標でした。それを自分たちの手で、町田というチームでつかみ取れて、単純に良かったなと思います。来季以降はまだ分からないですけど、町田の歴史の語る上で、節目の一員になれたことは、長くここにいる身として本当に良かったです。
――「J2優勝・J1初昇格時のキャプテン」という称号は永遠です。
まあ……おいしい立場ですね(笑)
――町田は本当に色んな人に支えられてきたチームだと思います。「誰に」というのは難しいかもしれないですけど、奥山選手が思いを伝えたい人への感謝を最後にお願いします。
感謝すべき人は本当にたくさんいます。個人的なところで言えば家族もそうですね。僕が知らない、クラブがもっともっと小さいときから紡いできた皆さんの思いが、ようやくJ1という舞台に届いて嬉しいです。J1は本当に全ての……クラブを作り上げた方もそうですし、関わってきたスタッフ、関係者、町田市の方もそうですし、多くの方の力を借りながら、やっとの思いでたどり着いた場所です。関わり続けてくれた本当にたくさんの方々に、もう感謝しかないです。ありがとうございました。