山田大記と郷家友太が実体験をもとに訴える「ソナエルJapan杯」に参加することの意義
東日本大震災で被災した郷家友太(左)と、昨年の静岡県豪雨で被災者支援活動を行った山田大記が、実体験をもとに「ソナエルJapan杯」への参加を呼び掛けた 【YOJI-GEN】
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郷家友太にとっての2つの震災
宮城県多賀城市出身の郷家が東日本大震災を体験したのは11歳の時。サッカーの練習もできない中で、チャリティーマッチでの三浦知良のゴールに勇気づけられたという 【写真は共同】
一方、百年構想を打ち出しているJリーグは、今年で開幕30周年。その歴史のほとんどをカバーした平成時代は、実に多くの大地震に見舞われてきた時代でもあった。阪神淡路大震災(1995年)、新潟県中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、そして熊本地震(2016年)。主なものだけでも、これだけ挙げられる。
大きな震災が起こるたびに、Jリーグはすぐさま被災地支援に動いた。最も記憶に残るのは、やはり2011年の「3.11」であろう。東日本大震災を受けて「チカラをひとつに。TEAM AS ONE」というスローガンのもと、Jリーグに所属する全クラブが義援金募金や復興支援活動を実施。Jリーグ選抜と日本代表による「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」も日本サッカー協会とともに開催している。
あれから12年。当時、被災した子供たちの中から、Jリーグで活躍する選手も出てくる時代になった。1999年生まれの24歳、ベガルタ仙台に所属する郷家友太も、そのひとりである。
「地震が発生した時は、小学校の教室にいました。定期的に避難訓練をやっていたので、机の下に隠れて揺れが収まるのを待ちました。その後は両親が迎えに来るまで、学校で待機していたことを覚えています」
郷家が暮らしていたのは、仙台市に隣接する多賀城市。震災時に甚大な津波被害があり、1746世帯が全壊、市内の犠牲者は188人に上った(関連死含む)。郷家の一家が、市内で津波被害があったことを知ったのは、地震発生の翌日だったという。
「停電でテレビが見られない状況でしたからね。水道も止まっていたので、父親と妹と3人で、自転車に乗って買い出しに行ったんですよ。僕の実家は高台にあって、下り坂を1キロくらい下りたら、海のようになっていてびっくりしました」
幸い自宅は、津波で流されたり、地震や火災で倒壊したりということはなかった。よって、一家が避難所暮らしを経験したわけでもない。それでも生活インフラがストップした状態が続き、食料を求めて長蛇の列に並ぶこともしばしばだった。当然、サッカーの練習も中断。そんな中でのチャリティーマッチ開催とJ1でのベガルタ仙台の躍進(2011シーズンの最終順位は当時のクラブ史上最高位となる4位)。当時小学生だった被災地のサッカー少年は、それらを今でも鮮明に記憶している。
「チャリティーマッチは、あっという間の90分でした。最後はカズさん(三浦知良)が決めて、全部持って行ってしまいましたが(笑)、あれで日本中が元気になりましたよね。まさにサッカーを通して、みんなが笑顔になった日でした。その年のベガルタの試合も、よくスタジアムで観戦していました。10番を付けていたリャン・ヨンギ選手は、子供の頃から僕の憧れでしたね」
青森山田高校を卒業後、郷家は2018年にヴィッセル神戸でプロデビューを果たした。そこで彼は、神戸市民が「1月17日」をメモリアルデーにしていることを知る。
「阪神淡路大震災が発生した日ですよね。僕が生まれる前の話ですが、ヴィッセル神戸となって最初のトレーニング日に、あの大震災が起こったことを知りました。今でもクラブの始動日は1月17日なんですが、必ずサポーターの人たちが駆けつけてくれるんです。神戸市民にとって、いかに重みのある日なのか、強く実感しました」