ネイサン・チェンが北京五輪のリンク上で突き上げた右拳 ショート世界最高得点を手に運命のフリーへ
2022年北京五輪の個人SPでネイサン・チェンは渾身のガッツポーズを見せた 【写真:青木紘二/アフロスポーツ】
北京五輪のフリーで5度の4回転ジャンプを決め金メダルを獲得したネイサン・チェン。その栄光の裏には、想像を絶する苦悩の日々、家族やチームとの絆があった。
トップスケーターが舞台裏を語り尽くす貴重な回顧録『ネイサン・チェン自伝 ワンジャンプ』から、一部抜粋して公開します。
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平昌の悪夢を振り払うガッツポーズ
ミスが出た選手もいたので、ぼくはすぐにプログラム後半の高難度の4回転ルッツ―3回転トウループをそのまま跳ぶか、それともよりかんたんな4回転トウループ―3回転トウループに置きかえるべきかと考えはじめた。しかしトウループのほうは、今季ほとんど練習しておらず、4回転ルッツ―3回転トウループをずっと練習してきた。ひとつの構成をつらぬくというのは平昌五輪のときの母の主張でもあった。プログラムをあれこれいじって変えるより、練習してきたプログラム、自分の体にしみついたプログラムにこだわるべきだといっていたのだ。
その教訓から4回転ルッツ―3回転トウループでいくことに決めたものの、それでも演技中、スピンの最中に一瞬迷いが生じた。フリップとアクセルはきれいに跳んだから、安全策で4回転トウループ―3回転トウループにしようか……。でもすぐに思いなおした。弱気を払いのけて自分にいいきかせた。
「よせよ。それじゃ自分に向かって弱いとか、できないとか、念押しするようなものだ。おまえは強いんだ。やるしかない」
ぼくは4回転ルッツ―3回転トウループを跳び、着氷した。
見ていた人が気付いたかどうか知らないが、あのジャンプをおりたあと、ぼくは心のなかで「よし! よしっ! やった!」と叫んでいた。ものすごくうれしかった。あのコンビネーションを跳び、五輪のショートプログラムで2度めのノーミスの演技ができて、心からほっとした。ついにやったのだ。でも全米選手権のフリーでもそうやって喜んでいたら、コレオシークエンスでころんでしまった。ショートプログラムでは、ステップと最後のスピンも重要な得点源だ。まだ終わってはいない。ぼくは自分にいいきかせた。
「気を引きしめて、ちゃんとステップをやろう。この感情をプログラムにこめて、プログラムの人物を演じきろう」
最後のスピンを終えると、もうがまんできなかった。うれしさのあまり、ぼくはこぶしを突きあげた。
SPでパーソナルベストと世界記録を樹立
テレビ解説のタラとジョニーはこのガッツポーズに驚き、喜びながら、ぼくが演技後感情をあらわにするのは、とてもめずらしいと話してくれた。それはほんとうだ。試合であまり感情を爆発させるのは、敬意が欠けているような気がするからだ。でもあのときはがまんできなかった。ハードルを越えたことがたまらなくうれしかった。平昌の「悪夢」は、あまりにも長いことぼくに取りついていた。それをようやく払いのけ、オリンピックで2度、自分でも胸を張れる納得のショートプログラムを滑りきったのだ。このことは、ほんとうに大きかった。
しかもさらにうれしいことに、この演技でぼくはパーソナルベストと世界記録を樹立した。ふだんは、いろいろな試合で出したスコアにはさほどこだわらない。というのも、別の大会のスコアどうしは、真に比較することはできないと思うからだ。大会ごとにジャッジのパネルがちがうので、たとえば各国の選手権と世界選手権、いや、グランプリシリーズの大会ごとですら、必ずしも比較できない。額面上のスコアですべてが表されるわけではない。
とはいいつつも、スコアは、自分の演技の具合と進歩の度合いを数字でたどるには、一番都合のいい指標だ。団体戦ショートのあと自分のスコアを見たときは、演技が上向いていることがわかってとてもうれしかった。でも、団体戦ではできることをすべてやって、出せるかぎりの高得点を出したとも感じていたので、個人戦のショートでどこを改善すればいいかわからなかった。それでもとにかく、すべてのエレメンツをよりきれいにこなそうと決意した。ジャンプの着氷をよりクリーンにし、ステップシークエンスのエッジをより明確に、そしてスピンはより速くして、得点の上積みをはかった。
それが功を奏した。技術点で2点以上の上積みを果たし、パーソナルベストと世界記録につなげることができたのだ。
いよいよつぎはフリープログラムだ。でもその前に、驚きのニュースが飛びこんできた。
ちょうど団体戦のメンバーが着がえをすませて、表彰式へ向かおうとしているところで、メダルセレモニーが法的事由により無期限に延期されると知らされたのだ。のちに、ひとりのスケーターが禁止薬物の検査で陽性になったため、調査が終わって決着するまで、順位の確定もメダルセレモニーも延期せざるを得ないということが判明した。しかしそのときは何が起きているかわからなかったし、全員、まだ試合がひかえていたので、選手村へ帰って寝ることにした。