ネイサン・チェンが初めて明かす 金メダル獲得までの苦悩と栄光

心身ともに壊れつつあったネイサン・チェン 平昌五輪を前に膨れ上がる恐怖と重圧、そして怪我…

ネイサン・チェン

負のスパイラル

2018年1月の全米選手権を制したネイサン・チェン(中央左)。猛練習の末に初の五輪代表の座を手にした 【写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ】

 母や、フィギュアスケート連盟の関係者もふくむチームのメンバーからは、強まるプレッシャーへの対処として、オリンピアンの先輩たちがオリンピックに向かう日々をどう過ごしたかについて話を聞いてはどうかと提案があった。

 そして実際に、チャーリー・ホワイトとエヴァン・ライサチェクからすばらしい助言を得ることができた。ふたりともとても親切に、自分たちがどのように五輪を乗りこえたかについての体験談を話してくれた。とはいえ経験というのは人それぞれで大きくちがうものだし、ぼくはそのころ、練習について信じられるのは自分の経験だけで、人の話は参考にならないと頑なに思いこんでいた。チャーリーもエヴァンも、プレッシャーや周囲の期待をいかに乗りきったか、また、どうやって練習を組み立てたか、惜しみなく話してくれたが、ぼくの優先順位とは異なっていると思ってしまっていた。

 2018年の全米選手権から平昌五輪までの1か月、ぼくはずっと強いストレスにさらされていた。ラフと母とブランドン、そしてぼくもふくめたチーム全体で、ここから完璧なステップを踏んで進みたかったのだが、どうしてもぴたりとはまる練習法が見つからなかった。試行錯誤を重ねてさまざまなトレーニングプランを試す余裕はなかったので、ただ過去にうまくいった方法をそのままつづけていた。

 ぼくには、オリンピックがどんなものかまったくわからなかったし、どのくらい心理的に圧倒されてしまうものなのか予想もつかなかった。技術的な準備だけの話ではないことも、また初めての五輪に向けてどれくらいの時間練習すればいいのかも、当時は無知のままだった。ぼくにできるのは、これまでどおりのやりかたをつづけることだけだった。けっきょくは、うまくいかなかったのだが。

「すべて未知の世界」の中で

 ともかく、ぼくは無我夢中で練習に取り組み、調子が悪くていらだちがつのっても、その気持ちを抑えつけようとした。初めての五輪に臨むにあたって、モットーは「金メダル以外は意味がない」だった。オリンピックには勝ちにいく、それ以外のことを考えるのを自分に許さなかった。オリンピックで金メダルを取れなかったら、ぼくにはいったいなんの価値がある?

 オリンピック前のぼくの練習は、本来あるべき量よりずっと多かったと思う。多くのアスリートが試合直前にはテーパリング、つまり練習量をじょじょに減らして、疲労をためすぎず確実に試合にピークをもっていけるようにすると話している。今になって思えば、ぼくもおなじ方法を取るべきだったのだ。

 ブランドンは、ぼくの練習量の強度に変化をもたせるよう、どこまで強く主張すべきか苦悩していた。ラフも母もぼくも、4回転ジャンプを1本以上、しかも単一ではなく異なる種類のジャンプを複数本組みこんだプログラムの練習については、手探りで進んでいるも同然だったからだ。この構成のプログラムに挑んだ選手は過去ひとりもいない。どの程度の練習量が適正でどの程度からが過剰になるのか、ぼくの股関節のケガという要素も加わり、その見きわめはすべて未知の世界だった。

 ブランドンはサンノゼでの全米選手権の練習リンクで、ぼくがトリプルアクセルに苦戦して何度も何度も何度も跳びつづけ、何度も何度も何度も転倒しているところを見ていた。心中では、ぼくがジャンプを跳びすぎて股関節のケガが悪化しないかとはらはらしながらも、一方でオリンピック代表選考の最後のチャンスである試合の数日前に、自分が口をはさんで練習の流れを妨げたところでなんにもならないという気持ちもあったという。この全米選手権は、ぼくの生涯において最も大事な試合のひとつだったからだ。

 そのころは、チーム全員がぼくを腫れ物にさわるようにあつかい、みんなおなじ結論に達していた。「こわれないかぎり手出しをしない」。ぼくの心理状態と練習への向き合いかたが、ぼくの体と心をすでにこわしつつあることに、ぼくもふくめてチームの誰も気付いていなかった。

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