心身ともに壊れつつあったネイサン・チェン 平昌五輪を前に膨れ上がる恐怖と重圧、そして怪我…
2017年12月のGP ファイナルで優勝したネイサン・チェン(中央)。平昌五輪へ向けて連勝を重ねたが… 【写真:Shutterstock/アフロ】
北京五輪のフリーで5度の4回転ジャンプを決め金メダルを獲得したネイサン・チェン。その栄光の裏には、想像を絶する苦悩の日々、家族やチームとの絆があった。
トップスケーターが舞台裏を語り尽くす貴重な回顧録『ネイサン・チェン自伝 ワンジャンプ』から、一部抜粋して公開します。
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自身初の五輪切符を手にして
試合が終わって、ぼくは姉たちと連れだってサンノゼのアリーナを出た。ふたりともぼくがオリンピアンになったことに興奮していて、どんな気分かときいてきた。ふたりのそんな喜びにこたえたくて、わくわくしているよと答えたのをおぼえている。ぼくはついに夢をかなえたのだ。それなのに、ぼくの心にあったのは、目標に向かって何年も必死で努力してきて、やっとの思いでその夢にたどり着いたときに自分を満たすと思っていた感情ではなかった。
ぼくの心は、恐怖でいっぱいだった。
頭に浮かんでくるのは、「ちょっと待った、どうしよう? だって、あのオリンピックだぞ?」という思いだけ。自分が負った大きな責任を前にして、ぼくはすっかりおじけづいていた。準備は間に合うだろうか。自分自身や、家族や、ラフや、今ではすっかり大きくなったぼくのチームが期待するような演技ができるだろうか。
もし今日がオリンピック当日だったとしたら、とてもじゃないけどまともに試合ができるような状態ではなかった。五輪がはじまるまでのおよそ3週間の練習で少しは自信がもてるかもしれないと、悪あがきにも似た希望にすがっていた。
当時のぼくが五輪にどんな意識で臨んだかといえば、すばらしい経験ができると期待に胸をふくらませているとか、ベストを尽くすことに集中するとかではなく、絶対に、なにがなんでも勝たなくてはいけない、ただそれだけだった。ぼくがそこにたどり着けるよう多くの人が助けてくれ、さまざまな支援による恩を受けてきたのだから、絶対に成功するのだと、肩にずしりと重い責任がのしかかるのを感じた。支えてくれた人たちをがっかりさせたくなかった。
ある意味、それは競技者としてはよい心理状態にもなり得る。実際、プレッシャーを受けることで成長するタイプの人たちもいる。でもぼくの場合はちがった。「ああ、だめだ。どうしたらいいのかわからない」と、今にも心が崩れてしまいそうだった。
「夢」が「現実」となったとき
プレッシャーの一部は、そのシーズンと前のシーズンでぼくがおさめたいくつかの勝利からきたものでもあった。それらの勝利が、ぼくの心に、平昌でも勝てるかもしれないという考えを植えつけた。そのときまでぼくは、世界最高のスケーターたちと競いあって勝ちたいという夢をひたすら追いつづけていた。そして五輪出場を決めた今、メディアも、チームも、そしてぼく自身までもが、突然ぼくが彼らに追いついたと信じてしまったのだ。ぼくは、自分が勝てるのはこの五輪一度しかないのだと思いこんで、こわくなった。
たとえるなら、人が熱いものに近づきすぎたとき反射的に見せる反応に似ているかもしれない。体がすくんで、さっと身を引いてしまう。人生を懸けてオリンピックで戦いたいと願ってきたのに、いざその機会が夢ではなく現実となったとたん、ずっと思いえがいていたオリンピック選手たる資質が自分にあるのかどうか、わからなくなってしまったのだ。