寺田明日香:ママアスリートが「いざなう」新しい特等席

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寺田明日香は、母になってからの方が強い。引退・進学・結婚・出産を経験し、ラグビーにも挑戦した。しかし、怪我をして気付いたことは、陸上への想い。100mハードル選手として復帰を果たすと、日本記録を打ち立て、Tokyo2020に出場。そして今、彼女の目にはパリ2024の陸上トラックで、まだ誰も座ったことのない新しい特等席からの景色が映っている。

【Getty Images】

「追うのも追われるのも楽しい」

Tokyo2020陸上競技の女子100mハードルで、日本勢としては21年ぶりに準決勝に進出した寺田明日香が、笑顔で放った言葉だ。

2023年5月7日に開かれた木南道孝記念陸上競技大会(大阪府)の女子100mハードルに出場した寺田は、12秒86(追い風0.4m)というパーソナルベストを更新するタイムで優勝。さらに、それからわずか2週間後の21日には、国際大会「セイコーゴールデングランプリ陸上2023横浜(神奈川県)」に出場し、連続して表彰台の中央に立った。

自身の進化に手応えを感じながら、"ママアスリート"である寺田には、若手ライバルの成長を楽しめる余裕もある。

"ママアスリート"は、容易なことではない。

まもなく9歳になる長女の育児をこなし、母業に勤しみながら、日本の女子陸上のトップランナーとして君臨する彼女は、守るべき家族と、"ママアスリート"をサポートしてくれる全ての人がいるからこそ、強くなれるのだ。

寺田は今、2度目のオリンピック出場に向けて、フランス・パリを見つめている。

ママとして、そして、アスリートとして駆け抜けてきた寺田の冒険路を追った。

惜しまれつつの引退

1990年1月14日に北海道札幌市で生を受けた寺田が陸上競技に出会ったのは、小学校4年生の時。走る楽しさを覚え、どんどん陸上の魅力にのめり込んで練習に励んでいると、それからわずか1年後の小学5年生時には全国大会の100mで2位の成績を収めるまでに、寺田は急成長していた。

中学生時代は、思うような記録が出せずに伸び悩んだ時期を過ごしていたが、高校へ進学した寺田は100mハードルに本格的に取り組み始め、この新たな種目への挑戦で、眠っていた才能を開花させる。インターハイ(全国高校総体)では、1年生からの在学期間中に3連覇を成し遂げ、最終学年の3年生時にはリレー2種目でも優勝に貢献し、3冠を達成した。

高校卒業後の2008年、初出場となった日本選手権では史上最年少で優勝し、2010年までの3年間で連覇の記録を打ち立てる。これらの実績が評価され、寺田は世界陸上ベルリン2009(ドイツ)に日本代表最年少選手として出場し、さらにアジア選手権 広州2009(中国)では銀メダルを獲得するなど、アスリートとして輝かしいキャリアを築いていった。

将来を嘱望され、順風満帆に見えた寺田だったが、次第に様々な困難にぶつかり始める。相次ぐ怪我に苦しみながら、摂食障害を患い、さらには無月経・生理不順といった、女性特有の体の変化にも悩まされた。目指していたロンドン2012の代表の座を逃したことで、周囲から惜しまれつつも、陸上トラックから離れることを決断する。

2013年、寺田は引退を発表した。

結婚、進学、出産、ラグビー !?

2013年9月、東京でのオリンピック開催が決まった。

当時、アスリートではなく、新しい道を歩み始めていた寺田は、観客として日本で開かれるオリンピックを見に行こうと決めていた。そして、現役中に描いていた引退後のプラン通り、彼女はパートナーと結婚し、大学へ進学、長女の出産と、大きなライフイベントを次々と実現する。

学業や母業などをこなしながら、忙しくも充実した引退後のセカンドキャリアを築いていた寺田のもとへ、思いも寄らない「いざない」が届く。7人制ラグビーへの挑戦だ。

リオ2016から男女ともにオリンピック正式種目となった7人制ラグビーは、東京2020でも実施されることが決まっており、とくに日本代表女子のナショナルチームは、日本の首都で開催されるオリンピックに向けた更なる強化を目的に、他競技からのタレント発掘が積極的に行なわれていた。陸上で培われた脚の速さが持ち味の寺田を、関係者が放っておく筈もなかった。

まだ幼い子どもがいて、合宿や試合に参加するため長期にわたって家を空けなければならない。考えれば考えるほど、「ハードル」だらけの挑戦だったが、寺田が出した答えは「イエス」だった。

こうして、寺田は競技転向というかたちで、アスリートに復帰する。

走る喜びの覚醒

トライアウトに合格した寺田は、2017年1月よりラグビー女子日本代表の練習生として、合宿に参加する。

ラグビーのことをよく知らないまま、個人スポーツではない、陸上トラックとは全く感触の異なる芝の上で、強いコンタクトが求められるチームスポーツに取り組み、オリンピックの夢をふたたび追いかけ始めた。ラグビーを始めて5ヶ月ほど経過して出場した試合中、寺田は右足首を骨折する大きな怪我に見舞われ、6ヶ月にも及ぶ離脱期間を余儀なくされた。

怪我からの回復後、日本代表の合宿に復帰した寺田だったが、スキルや気持ちの面で周囲との明らかな落差を感じる。一方で、ラグビーを通じて自分の中で眠っていた走る喜びが、呼び覚まされていくのを感じていた。

この時、寺田には選択肢がいくつかあった。

ラグビーを続ける。母に戻る。

でも、またとない母国開催のオリンピックは、刻々と迫っていた。

寺田が出した答えは、"ママアスリート" としての陸上競技への復帰だった。

母は強し

2018年12月、ラグビーからの引退と陸上競技への復帰を発表した寺田は、およそ5年半ぶりに陸上競技場へと戻ってきた。紆余曲折を経て、もう一度オリンピックを目指し始めた寺田は、メンタルだけでなくフィジカルにおいても、一皮剥けていた。

2019年6月に行われた日本選手権という国内最高峰の舞台で、いきなり3位表彰台に上がると、8月に福井県で初開催となったアスリートナイトゲームスでは、日本記録(当時)に並ぶタイム13秒00で優勝を飾り、さらに翌9月の富士北麓ワールドトライアル(山梨県)では、12秒97という日本記録(当時)を樹立した。この大会が、10月に開催される世界陸上ドーハ2019の選考ラストチャンスであり、かつタイムも参加標準記録を上回ったことから、寺田はドーハ2019の日本代表に選出される。ベルリン2009以来、ちょうど10年ぶりの世界陸上の出場権を勝ち取ったのだ。

世界的な新型コロナウィルス(COVID−19)感染拡大の影響により、東京オリンピックの1年延期が決まった中でも、寺田は国内トップの成績を残し続け、2021年4月に開かれた織田幹雄記念国際陸上競技大会(広島県)では、自身がもっていた国内最速記録を0.01秒上回るタイム(12秒96)で更新し、悲願のオリンピック日本代表に選出される。そして、日の丸を背負い、10台のハードルを跳び越えながら、100mのディスタンスを駆け抜ける姿を、愛娘に見せることができたのだ。

「子どもの存在が原動力で、子どもにオリンピックで活躍している姿を見せたいという気持ちで頑張ってきました」
- 寺田明日香・LIFULLより

ママもパパも、関係ない

Tokyo2020女子ハードル100mに出場した寺田は、予選を突破したものの、決勝のステージにはあと一歩及ばず、準決勝敗退となった。

しかし、寺田が残した功績は偉大だ。

"ママアスリート" として夢を叶え、子どもたちはさることながら、ママ世代にも寺田の挑戦する姿に勇気をもらった人は数多くいる。

だけれども、寺田本人も実のところ、首を傾げていることがある。

「私自身も『ママアスリート』とハッシュタグなどをつけてSNSに投稿することもありますが、『パパアスリート』という言葉はないですよね」
「ママアスリートもパパアスリートも、同じようにスポーツをすることができる社会になっていけばいいなと思います」
- 寺田明日香・GROWINGより

そうか。寺田が走ってきた道は、何も彼女だけに許された特別な道ではなく、誰でも夢を追いかけることができるというメッセージだったのだ。

確かに、世界を見渡せば、母になっても輝かしい功績を残しているアスリートは少なくない。

たとえば、女子テニスのレジェンド、セリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)は第1子を出産後に4度のグランドスラム決勝に進出している。競泳のダラ・トーレス(アメリカ)は、ロサンゼルス1984の初出場から、シドニー2000の4度目のオリンピック出場までに、4個の金を含む計9個のメダルを獲得した。2006年に長女を出産し、現役復帰して出場した北京2008で、トーレスは3個の銀メダルを自身のコレクションに追加している。

陸上競技では、アテネ2004からリオ2016までのオリンピック連続4大会において金6、銀3のメダルを獲得しているアリソン・フェリックス(アメリカ)の記憶も新しい。2018年に第1子を出産した後、母となって出場した連続5度目のTokyo2020では、金と銅のメダルを獲得し、キャリアを通じてトータル11個のオリンピックメダルを獲得している。

新しい特等席へ

寺田は、2021年に自身が代表を務める会社と団体を立ち上げ、トップアスリートが提供するトレーニングセッションの企画・運営や、世界を目指す若手アスリートの育成に取り組んでいる。そして、寺田自身も現役選手としての活動を続けながら、女性アスリートの支援も行うなど、そのカテゴリーは多岐にわたる。

そんなエネルギッシュな寺田の目には、開幕まで1年余りと迫るパリ2024が映っている。それから、今年の8月には世界陸上ブダペスト2023(ハンガリー)も控えている。

「オリンピックの借りはオリンピックで返すじゃないですけど。観客が入っている舞台を経験していないので、そこを経験したいのと、みんなにも見てほしい」

前述の横浜での国際大会で優勝した後に、寺田がインタビューで答えた言葉だ。

寺田は、フランスの首都で行われるオリンピックで、まだ誰も知らない新しい景色へと私たちを「いざなって」くれているようだ。

そこは、まさに新しい特等席。

まだ誰も座ったことのない、"ママアスリート" として走り続ける寺田だけが「いざなう」ことのできる特別な指定席だ。

でも、今の子どもたちが大人になる頃にはきっと、その特等席は、ただの普通席になっているかもしれない。

だって、ママもパパも、立場も肩書も、ジェンダーもセクシャリティーも関係なく、誰もが自分らしく夢に向かって挑戦できる世界に変わっているのだから——。

世界陸上ブダペスト2023の日本代表選考を兼ねる「第107回日本陸上競技選手権大会」は、6月1日から4日までヤンマースタジアム長居(大阪府大阪市)にて行われる。

また、寺田が出場予定の女子100mハードルは、予選および準決勝が2日、決勝が3日に行われる。

文=Yukifumi Tanaka/田中幸文
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