大阪桐蔭OB・根尾昂インタビュー 18年に春夏連覇も「負けた時の思い出の方が…」
2000年に生まれ、夏の甲子園は第100回。記念すべき大会で、「最強世代」という異名で春夏連覇を達成した大阪桐蔭。その中心にいたのが根尾だ。時にマウンドで、時に内外野で。バッティングセンスも抜群で、高校3年間で4回の甲子園出場。うち3度も優勝した。
ドラフト1位で中日に入団。野手としてプロのキャリアをスタートさせたが、今季から投手に専念。そんな根尾にとって、高校時代とはどんな時間だったのか。甲子園は何を与えてくれたのか。根尾自身の言葉で語ってもらった。
高校3年間を振り返る
大阪桐蔭高校時代の根尾昂 【センバツLIVE!】
すごい競争意識の高い学校で。入学する前から同級生には負けたくないという気持ちとかもちろんありましたし、入学してからもそうです。卒業してからも同級生には負けたくないなという気持ちはずっとあるので。そういう競争意識を持った学校で野球できたのはすごい幸せだったなというか、ありがたい経験でした。バチバチだったというか。毎日、実戦形式が練習の中にあったりするやり方をしていたので。毎日やられて、やりかえして。そういう意識は特に強かったですね。
――プロのような世界だった?
同じような環境だとは思います。自分の仕事になったという変化はありますけど、そういうところは高校の頃から変わっていないなとは思います。それが楽しいというか、しっかり自分の結果が出たときは嬉しいですし、そういう喜びを感じられるようにして。その繰り返しなんじゃないかなと思うので。
――大阪桐蔭の3年間で自分の野球観は変化した?
やっぱり最初からうまくいかないことばっかり。特にその3年間はけがしたり、うまくいかなかったりしたことの方が頭には残っています。その中でゲームに出て、たまたまでも結果が出て、それを再現するために練習してという感じの3年間だったので。すごいありがたい経験をさせてもらった3年間というか、印象っていうのはうまくいったものよりいかなかった方が……優勝した時の思い出よりも負けた時の思い出の方が残っていますね。
春夏連覇の重圧とは
プロ野球・中日ドラゴンズで投手に専念する根尾昂 【センバツLIVE!】
(周りは)騒いでいるなとは思っていましたけど、僕らはそれどころじゃなかったので。僕らが2年生の時に夏の甲子園で先輩たちがいるチームで負けてしまって。自分たちの代になった秋でも勝てなくて。本当にうまくいっていなかった。僕らの代の前の代の時点でうまくいっていないことの方が多かったので。100回大会、2000年生まれでっていうプレッシャーがかかっていたのは西谷浩一監督や有友茂史部長、コーチの方々だと思います。選手は目の前の試合をやるだけだったので。でも、やっぱり負けられないなというか、「僕たちの代で春も夏も勝つ」とやっていたので。負けるわけないと思って試合はやっていました。
――3年春のセンバツVの経験は自信?過信?
うまくいきすぎていた部分は正直ありました。春はギリギリの戦いばっかりだったという印象が強いので。チームとしても、春が終わって気が緩んだということはないでしょうし。こんな簡単に夏は勝てないというような感覚になっていたと思います。
――夏の頂点を目指す上で意識していたことは?
まず、『ピッチャーは打たれる』と言われていました。『春はピッチャーが抑えることで勝つ傾向にある。夏はどんなに良いピッチャーでも打たれる』というのは、ずっと言われていて。とにかくどんなピッチャーが来ても打つ、どれだけすごいピッチャーが来ても打てるように、ということはずっと言われていました。あとは、暑さというところで、まず暑さと自分に勝てるようにというところ。暑さに負けていたら対相手にはならないので。
秋春夏連覇へ挑む後輩へ
インタビューに答える根尾昂 【センバツLIVE!】
はい、テレビで。めちゃくちゃ強かったセンバツのゲームは見ていました。今いる後輩たちのチームも、良いピッチャーはいっぱいいますし、良いバッターもたくさんいるんで。僕らとはまた違って春優勝して、秋も勝ってるんで。僕らよりも全然すごいんじゃないですか。
――後輩たちへエールをお願いします
圧倒して勝つ、というところをテーマにやられているとは思うんですけど。夏はピッチャーは打たれると思うので。なんとか粘って、バッター陣が1点でも多く取ってくれればいいなと思います。僕らの世代もそうですし、もっと上の代の先輩方も『優勝して当たり前だろ』と見ながら応援していると思うので。プレッシャーに負けずに頑張ってほしいなと思います。
(企画構成:センバツLIVE)
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