【パラスポーツ】谷真海選手インタビュー 自国開催だからこそ生まれた意識変化

笹川スポーツ財団
チーム・協会

【フォート・キシモト】

2013年9月にアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会の最終プレゼンテーションでスピーチを行い、東京オリンピック・パラリンピックの招致に大きく貢献した谷 真海選手(当時は旧姓・佐藤)。

アスリートとしては、パラ陸上の走り幅跳びで2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場。そして一児の母となり、現役復帰後には、パラトライアスロンに転向し、東京パラリンピックに出場を果たしました。

招致活動から携わり、何度もパラリンピックを経験してきた谷選手にとって、東京パラリンピックはどんな大会となったのでしょうか。また、東京パラリンピックを終えた今後は、どんなことが必要となるのでしょうか。谷選手に話をうかがいました。


聞き手/佐野慎輔
文/斎藤寿子
写真/フォート・キシモト、谷真海
※本記事は、2022年6月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。

幸せを感じた東京パラリンピックのレース

東京2020パラリンピック、トライアスロンのラン。(2021年) 【フォート・キシモト】

2大会ぶり4度目の舞台となった東京パラリンピックは、パラトライアスロンの日本代表として出場されました。世界最高峰での戦いを終えた今、どんなお気持ちでしょうか?

まず東京パラリンピックに向けては、パラ陸上の走り幅跳びからパラトライアスロンへと競技を転向するところからのスタートでした。2016年に転向し、翌2017年から国際大会に出場してきました。当時は、開催が予定されていた2020年には、果たして自分が世界と戦うレベルでアスリートとしてやっていけているのかどうか、確信も自信もありませんでした。ただ、自分自身が招致に関わった大会でもありましたので、少しでも可能性があればチャレンジしてみたいという強い思いでやっていました。
でも、この5年間は「出場は厳しいかな」と諦めかけたり、競技を続けるかどうかを悩むほど、大変なことがたくさんありました。また、新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京大会が1年延期となり、なかなか収束の見通しが立たないなか、「本当に開催できるのかどうか」「開催できたところで、果たして皆さんに応援してもらえる大会になるのだろうか」という大きな不安が、東京オリンピックが開幕するまでずっとありました。そんななか、東京オリンピックの開会式でマスク越しではありましたが、入場行進する各国の選手団の笑顔あふれる表情を見て、また実際に競技が始まって国民の皆さんが温かく応援してくださっていることを感じることができ、ようやく安心することができました。

アスリートとして出場できるかどうかということ以上に、大会自体がどうなってしまうんだろうという不安のほうが大きくありましたので、まずは無事に開催したこと、それに加えて、日を追うごとに徐々に皆さんからの応援の声が大きくなっていったことが何より嬉しかったです。そして、自分自身も無事に東京パラリンピックを迎えられたことに、まず感謝したいと思いました。そして、レースを終えて感じたのは、「これはトライアスロンのひとつのレースでのゴールではなく、招致活動からの8年間のゴールだな」と。そう思ったら、なんだか安堵の気持ちでいっぱいになりました。

ご自身は、10位という結果でした。最初のスイムからバイクへのトランジションまでは、非常にうまくレース展開ができていたのではないかと思いますが、いかがでしたか?

スイムから上がってきた時には5位につけていましたが、いつもそれくらいなんです。私の本来のクラスPTS4(パラトライアスロンでは運動機能の障がいの重いほうからPTS1〜5の5段階にクラスが分けられてレースが行われている)は東京パラリンピックでは実施されなかったので、それよりも障がいが軽いクラスのPTS5のなかに入ってのレースを余儀なくされました。そのためにPTS4ではトップもしくは2番目に上がってくることが多いスイムでも、PTS5と一緒のレースでは真んなかくらいが定位置なんです。ですので、自分としては順当な位置に付けていたと思います。
次のバイクはもともと最も苦手とする種目で、東京パラリンピックに向けては一番時間をかけて強化してきた部分でした。ですので、強い思いを持ってレースに臨みました。前半は思い通りの走りができていたのですが、猛暑のなかでのレースということもあって体力の消耗が激しく、後半はいつも以上の心拍数で苦しさも感じていました。「これはタフなレースになるな」というふうには思っていましたが、最後のランに余力を残すということは考えていませんでした。バイクで後続に落とされずに逃げたなかで、最後のランで勝負したかったので、そこでめいっぱいの力を使った感じでした。

東京2020パラリンピック、トライアスロンのバイク(2021年) 【フォート・キシモト】

まさに開幕前におっしゃっていた「限界への挑戦」というような、ご自身が思い描いていた通りのレース運びができていたわけですね。

そうですね。過去数年間の国際大会では、バイクで結果が出てしまうというようなレースが続いていたので、そうはなりたくないという強い気持ちがありました。ただ、そこで力を使い果たしてしまうと、最後のランで力を出せないこともあったりするので、それは賭けでもありました。
正直、東京パラリンピックのレースではバイクの途中からは軽い熱中症のような症状が出ていて、思うように体が動かないというような状態でした。あれがもし、東京パラリンピックという特別の舞台でなければ、最後まで走れたかどうかわからなかったなというくらい苦しかったです。

東京パラリンピックの舞台ということが、原動力になっていたと。

それもありましたし、大きな声では言えませんが、屋外競技ということもあって、沿道からはたくさんの声援をいただいていたんです。それが、すごく力になっていたことは間違いありません。

ランでは最下位にまで落ちてしまいましたが、それでもゴールした時の谷さんの笑顔が印象的でした。

結果うんぬんというよりも、最後まで走り切れたことにほっとする気持ちでした。「いろいろ大変なこともあったけれど、無事に東京パラリンピックの舞台に立つことができ、そしてテレビを通してもたくさんの人たちが応援してくださったなかでゴールを迎えることができたんだ」と思ったら、すごく幸せだなと思えたんです。

東京2020パラリンピック、トライアスロン。ゴールの直後の様子。(2021年) 【フォート・キシモト】

現役復帰に欠かせなかった家族、会社からの理解とサポート

家族とともに。 【本人提供】

この8年間で、ご自身の状況はガラリと変わりました。2014年9月7日にご結婚されて「佐藤真海」さんから「谷真海」さんとなりました。そして翌2015年には第一子となる男の子をご出産され、一児の母となりました。人生も生活スタイルも大きく変わったなかで、再びアスリートとして挑戦しようと思った理由は何だったのでしょうか?

やはり、自国開催の東京パラリンピックという存在が大きかったと思います。招致にも関わらせていただいたなかで、どんな形でも大会に関わりたいという思いがありました。最初はボランティアという選択肢も考えたりしていたのですが、まずはアスリートとして心残りがあるのかどうかを自分に確認しようと思ったんです。
ただ、それまでやってきた走り幅跳びでは6年後に世界の舞台に復帰することは、難しいだろうと。それで、もともと走り幅跳びに区切りをつけたら本格的に挑戦したいと思っていたトライアスロンではどうだろうというふうに考えるようになったんです。実は、すでに短距離のレースには年に一度チャレンジしていて、トライアスロン用のバイクも持っていました。

トライアスロンに興味を持ち始めたのは、何かきっかけがあったのでしょうか?

トライアスロンのオープンレースは、年齢もさまざまですし、障がいの有無に関係なく参加することができて垣根がまったくないんです。みんな自分自身と向き合い、一緒に励まし合いながらゴールをめざすという姿が、スポーツとしてとても魅力的に感じました。ゴールした後は、結果に関係なく、みんながハッピーな気持ちになれるんです。過酷な競技でありながらも、すごく人の温かみを感じられるのが、すごくいいなと。それで本格的に挑戦したいという気持ちが出てきました。

ただ、東京パラリンピックをめざすとなると、世界のトップとしのぎを削り合うだけの実力が必要となります。まだお子さんも小さかったですし、お仕事も続けられていました。そうしたなかでのトレーニングは、大変だったのではないでしょうか。

正直なところ、大変だったことをあげればきりがありません。まずは体をアスリートに戻すところから始めなければいけなかったので、トレーニングの時間を確保することが最重要課題でした。でも、やはり最初はそれがすごく難しかったです。出産して1年間は保育園に預けずに、日中は自分ひとりで子育てをしていました。乳児でしたから手が離せませんので、なかなかトレーニングの時間をつくることはできませんでした。

子どもと一緒に寸暇を惜しんでトレーニング。 【本人提供】

日本では女性アスリートが子育てをしながら競技を続けるという環境が、まだまだ後れています。実際に、そういうことも感じられたのではないでしょうか?

正直に言ってしまうと、産後にスムーズに競技に戻ることのできる環境にはまだまだないなとは感じました。支援体制ということもそうですし、産後はどのようなトレーニングをすればいいのかという情報も少ないんです。ただ海外では産後に競技に復帰して、アスリートとして活躍している選手はたくさんいることは知っていましたので、不可能ではないとは思っていました。だから海外サイトを検索するなどして、自分自身で情報収集に努めました。
JISS(国立スポーツ科学センター)には託児所が設けられているのですが、自宅からそこまで行くにも簡単ではないですし、スイム、バイク、ランの3種目をするトライアスロンという競技の特性上、JISS一カ所ですべてのトレーニングをすることが難しいんです。結局は自助努力でやっていくしか方法はありませんでした。私の場合は、職場であるサントリーが復帰の後押しをしてくれて、仕事のボリュームを減らしてくれたり、トレーニングをする環境を整えるという点でもフォローしてくれました。そして家族が理解してくれ、サポートしてくれたことが何より大きかったです。トレーニングは、もちろんひとりでできるものもたくさんあるのですが、やはり強化という点でみんなと切磋琢磨してというところで仲間がいないとできない部分もたくさんあります。そういう強化は、朝の時間にトライアスロンスクールに行くようにしていたので、朝の時間帯は子どもの面倒や家事を家族にお願いするということもしていました。職場と家族、どちらの理解やサポートが欠けても女性が競技に復帰するということは難しいと感じました。

紆余曲折だった東京パラリンピックまでの道のり

ITU世界トライアスロンシリーズでのバイク。(2018年) 【フォート・キシモト】

パラトライアスロンに転向して以降、数々の国際大会で優勝するなど、東京パラリンピックに向けて、とても順調でした。ところが、2018年に競技人口が少ないことが理由で、谷選手のPTS4は、東京パラリンピックの種目から外れることが決定しました。あの時のショックは大きかったのではないでしょうか。

正直に言いますと、何と表現していいのかわからない理不尽さを感じました。私のなかでは「本来、パラリンピックって競技人口の数で出場の機会が失われるものではないはずでは?」という思いがありました。私たち選手は、どの障がいのクラスになるかは、自分では選ぶことはできません。そういうなかで、パラリンピックで行うクラスと、行われないクラスが出てくるのは、どうなんだろうと。4年前とか、もう少し前に決まっていたことならまだ理解できますが、これだけ努力してきたなかで、本番2年前になってばっさり切られたことに、納得することができませんでした。
実は、初めてパラトライアスロンが正式競技に採用された前回の2016年リオデジャネイロパラリンピックでも同じような理不尽なことが行われたのです。ですから、きちんと選手から声をあげて問題視してもらわないと、また同じようにパラリンピックをめざして努力してきた選手が直前になって道を閉ざされることが起きうるなと思ったんです。それこそ今回、誰も何も動かなければ、問題であることにも気づかないだろうなと。私が以前に取り組んでいたパラ陸上も、さまざまなクラスに分けられていて、もちろん同じように競技人口が少ないクラスもあります。でも、パラ陸上の場合は、「コンバインド」といって競技人口が少ないクラスを統合してひとつの種目として実施します。できるだけ公平となるよう、クラスごとに設定された係数(ハンデのようなもの)を使ってスコアや計算タイムを算出し、順位を決めるんです。
パラリンピック競技では、パラ陸上以外でも、そうしたことが行われている競技はいくつもありますので、パラトライアスロンだけこうした理不尽なことが続くということに対して、私としては「はい、そうですか」とはいきませんでした。パラリンピックを経験してきた私だからこそできることだとも思いましたので、こういう問題が起きているということをIPC(国際パラリンピック委員会)とIF(国際競技連盟)に認識してほしいという思いで声をあげました。たとえ今回解決されなかったとしても、次にはつながるだろうと思ったんです。

谷さんが声をあげて、IPCやIFに訴えたことによって、一度は出場の機会が失われたPTS4の選手も、PTS5と統合されたかたちで出場が可能となりました。

それは、最低限の形でした。実は、私としてはパラ陸上と同じように、係数をかけた形で記録を算出する方法をリクエストしたかったんです。でも、日本トライアスロン連合の判断として、それでは何も要望は通らないだろうと。もともとレースが行われることが決まっていたPTS5の選手が不利になってしまいますからね。それでまずはどんな形でもPTS4の選手が出場できる形に持っていったほうがいいのでは、というアドバイスをいただきました。ですので、本当に最低限の形を受け入れたというだけで、決して納得のいく形ではありませんでした。次の2024年パリパラリンピックでは、どういうことになるかなと注目しています。いずれにしても、選手が声をあげるということは、とても大事だと思います。特にまだ歴史が浅い競技においては、選手だけでなく、組織自体も成長していかなければいけない部分はたくさんあると思いますので。今回もPTS4の選手がPTS5のレースに出場できるようにルール改正が行われたということは、少なくともパラトライアスロン界において問題があることを認識してもらえたらからだろうと。そういう意味では、大きな一歩だったと思います。

なんとか出場が可能な形でレースが行われることになったと思ったら、今度は新型コロナウイルス感染症が拡大し、東京オリンピック・パラリンピックの開催が1年延期となりました。気持ちの維持が大変だったと思います。

1年延期になったということについては、アスリート全員が何らかの影響を受けたと思いますし、捉え方は人それぞれ違っていいのだと思っていました。そのなかで、私としてはどうモチベーションを維持していったら良いか悩んだというのが正直なところです。まず、国民の皆さんが開催に対してあまり良く思っていないということが、とても心苦しく思いました。また、自分自身がプラス1年、心身ともに耐えられるかというところもすごく考えました。ただ、しばらくレースも開催できない状況でしたから、まずは急いで答えを出さずに、家族との時間を大切にすることにしました。

そうしたなかで、東京パラリンピックに対して、自分の気持ちがどちらに動くかを待つような状況でした。そういう意味では、家族がいて良かったです。常に競技のことを考えなくて良かったですし、家族といる時間がすごくリフレッシュになりました。最初に緊急事態宣言が発令された時には、何をすればいいのか悩んだりもしたのですが、家族で少し外を走ったりして、スポーツと楽しく向き合う時間がつくれました。また、周りを見ると、もちろん距離を取りながらですが、結構たくさんの人がウォーキングやジョギングをしたりしていて、スポーツを楽しんでいる様子が見られたことも、すごく嬉しかったですね。「ああ、やっぱりスポーツっていいな。楽しいな」と改めて思わせてくれた時間でもありました。

子どもと一緒にトレーニング。 【本人提供】

そうしたなかで、どのようにしてまた東京パラリンピックに向かっていくことができたのでしょうか?

最初は、果たして本当に東京パラリンピックは開催されるのだろうかという思いがあったのですが、組織委員会の人たちをはじめ、多くの関係者の方々が開催に向けて動いてくださっているのを見聞きして、開催されることを確信することができたことが、まずは大きかったです。そうしたなかで、自分が途中でやめてしまったら、必ず後悔するだろうと思いました。実際に開催されるされないは別として、まだ代表選考の途中でもありましたので、ここでやめずに最後までやりきろうという思いが出てきました。そういうなかで、春からレースが再開するという話も出てきましたので、また気持ちが戻ってきたという感じでした。

東京パラリンピックで感じた称賛と感謝

初出場のアテネパラリンピックでの試技。(2004年) 【フォート・キシモト】

パラ陸上の走り幅跳びの選手として、パラリンピックには2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと3大会出場し、そしてパラトライアスロン選手として今回の東京大会と、谷さんにとっては4回目のパラリンピック出場となりました。これまでの大会とは、何か違いを感じたことはありましたか?

今回はコロナ禍での開催ということだったので、選手たちも競技以外では常にマスクの装着が義務化されるなど厳しいルールのなかで行動しなければなりませんでした。また、競技も原則として無観客というなかで行われるなど、これまでのパラリンピックとはまったく異なる部分が多かった大会でもありました。そうしたなかで、選手たちはコロナ禍という厳しい状況を乗り越えるというよりは、「withコロナ」という言葉があるように共存しながら無事に大会を終えることを意識していた大会だったと思います。ですので、多くのことを望まず、とにかく開催して競技をさせてもらうだけで良いという、ある意味での覚悟が選手たちのなかにあったように思います。また、実際にはいろいろと思うところもあったとは思いますが、開催できないかもしれないという状況のなかで、しっかりと開催にこぎつけてくださったことに感謝の気持ちがあったと思います。

谷さんにとっては、招致から深く関わってきたパラリンピックで、思い入れも強かったと思います。実際に東京パラリンピックが開催されて良かったと思いましたか?

良かったと思いました。オリンピックも含めてスポーツ界として、4年に一度の世界最高峰の大会がなくなってしまうというのは、スポーツの灯が消えてしまうことと同じですよね。特にメジャースポーツ以外は、オリンピック、パラリンピックがなくなってしまうと、動きが止まってしまうことにもなると思いますので、たとえ5年かかっても開催できたことは良かったと思います。

3回目の出場となったロンドンパラリンピックの試技。(2012年) 【フォート・キシモト】

どんな場面で、開催して良かったと実感できましたか?

やはり選手村と競技会場ですね。特に選手村の雰囲気がとても良くて、熱気に満ち溢れていました。私も選手村に入村した時に「また、この場所に帰ってこられたんだな」と感慨深かったです。特に私の場合は、前回の2016年リオパラリンピックには出場していませんでしたので、9年ぶりということもあって「やっと、戻ってこられた」という思いが強かったですね。ただ今回の東京パラリンピックでは原則無観客で行われ、直に選手たちやパフォーマンスに触れることができませんでした。コロナ禍では仕方なかったと思いますが、やはりパラスポーツやパラアスリートに対する価値観を変えるには、実際に会場で見ていただくことが非常に重要だと思っています。それが東京パラリンピックでやり残したことのひとつだと思いますので、日本に国際大会を招致して、観戦してもらう機会を増やすことが、まずは大事かなと思います。

今回の東京オリンピック・パラリンピックにおいて、海外からもボランティアに対して大きな称賛を受けていますが、谷さんご自身はどのように感じられましたか?

実は東京オリンピックが開催されている時から、ボランティアに対して高い評価を受けているということは耳にしていたんです。それこそ、パラリンピックに出場するたびに毎回、現地のボランティアさんたちの対応にはすごく感動していたのですが、日本では実際にどうなのかなと思いながら東京パラリンピックに臨み、想像以上の感動がありました。
どのボランティアさんも、いつも笑顔で接してくれて、ホスピタリティが高かったので、「これは、選手の心に残るだろな」と。それこそ常にマスクの装着が義務付けられていましたので、表情が読みにくく、コミュニケーションも難しかったと思うのですが、とにかく笑顔で接してくれたことで、選手も安心感が得られたのではないかと思います。また、明るさや親しみだけではなく、丁寧な対応というのも、日本らしさだったように思いました。それこそ、見えなくなるまで選手が乗ったバスに手を振り続けてくれていたりとか。また、無観客だったからこそ、どこの会場でもボランティアさんたちからの応援が支えになったという話を聞きましたが、私自身も競技中にボランティアの方々から声を掛けて頂き大きな力となりました。

止めてはいけない自国開催で進んだ意識改革

東京2020大会パラリンピック選手村にて(2021年) 【本人提供】

谷さんにとって、パラリンピックの魅力とは?

人間の可能性を示してくれるところ。それがたくさんの人にインスパイア(感化、啓発)していくというのが、大きいと思います。オリンピックとはまた違う意味での「すごい!」という驚きが、パラリンピックにはあると思うんです。そこで意識が変わる人というのは、少なくないと思っていて、パラリンピックほど大きく意識改革できる場はないのかなと。そういう部分が魅力だと思いますし、これからも大事にしていってもらいたいなと思っています。

これまで「史上最高のパラリンピック」と称賛されてきたのが、2012年のロンドンパラリンピックでした。開幕前からイギリスの公共放送Channel4が制作したCM動画「MeetThe Superhumans」(アスリートとしてトレーニングに励む様子やパフォーマンスの高さをスタイリッシュに映し出し、また事故にあった衝撃映像など、それまでタブー視されてきた部分までパラアスリートのそのままを描いた革新的な映像)が話題となり、実際に競技場には大勢の観客がスポーツとして楽しむ姿がありました。谷さん自身も、その光景に衝撃を受けられたそうですが、当時の日本はまだパラリンピックの存在さえもよく知られていない時代でした。あれから9年が過ぎ、東京パラリンピックが開催されたわけですが、何か変化を感じていることはありますか?

東京パラリンピックの開催が決定したことによって、パラアスリートたちの練習環境、そして社会的認知度に関しては、とてもプラスに働いたと思います。やはり自国開催がなければ、そのどちらもこれほど大きくは変わらなかったと思います。トップの選手だけでなく、若い選手がパラリンピックをめざすという部分においても、環境は大きく改善されてきたと感じています。思えば、東京オリンピック・パラリンピックの招致に関わった当初、特にパラリンピックにおいては、日本と障がい者スポーツ先進国との間には大きな差があると感じていました。ロンドンのように、パラリンピックが自国開催されない限りは、大きくは変わらないだろうなと。
ですので、2013年に東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した時には、「障がい者スポーツの先進国に追いつけるチャンスなのだから、これからいろいろとやっていかなければいけない」という責任を感じていました。そういうなかで、国もすぐに動いてくれたことは大きかったと思います。2014年からは、スポーツ振興の観点から行われる障がい者スポーツに関する事業は、厚生労働省から文部科学省に移管され、2015年からは文部科学省の外局として設置されたスポーツ庁の管轄となりました。また、パラリンピック競技や選手たちに対して応援や支援をしてくださる企業も増え、選手がパラリンピックをめざす環境はとても良くなったと感じています。ただ、この8年間というのはパラスポーツにとって"バブル"であったと思いますので、同じような状況がこれからも続くというのは難しいだろうと思っています。

ロンドンパラリンピック開会式の様子。(2012年) 【フォート・キシモト】

記事の扱いも含めてメディアについては、どう感じていますか?

2012年ロンドンパラリンピックの時、私は現地で毎日、Channel4のCMや番組を見ながら、オリンピックと同じようにスポーツやアスリートとして扱っていることに感動していました。その点、東京パラリンピックに向けて、日本のメディアもだいぶ変わったなと感じています。それまでは障がいを乗り越えてというところに重きが置かれていたのが、多くのメディアが、スポーツとして、アスリートとしてという部分にフィーチャー(特徴づける)しているなと思いました。

一過性のムーブメントに終わらせるのではなく、持続させなければ、東京オリンピック・パラリンピックのテーマでもあった「多様性」や「共生社会」というところにはたどり着きません。持続させるためには、どのようなことが必要だとお考えでしょうか?

選手や競技団体だけがサポートを受けるのではなく、サポートする側と、サポートされる側の両方が、「ギブ・アンド・テイク」の関係でなければ続かないと思っています。選手は、サポートしてもらっている代わりに、自分は何を企業や社会に還元できるのかを考えていくことが、今後は求められてくると思います。
これからアスリートは、ロールモデルとしても期待の声が大きくなっていますが、谷さんが考えるアスリートが果たす役割とはどういうものでしょうか?

世界をめざす経験や、実際にパラリンピックに出場した経験をしたからこそ得られたものはたくさんあって、そうしたなかで考えてきたことやアイディアというのが、その人なりにそれぞれあると思うんです。それをいろいろな人たちに伝えていく責務というものがあるのかなと思います。みんなから応援してもらって当たり前ではなく、応援してもらっている分、自分たちには何ができるのか。私の場合は、東北の子どもたちに夢や希望を与える活動を続けてきましたが、どういうことができるかはその競技団体、その選手によって違うと思うので、何ができるかを考えて還元していくということが必要だと思います。私が所属している会社では「やってみなはれ」というチャレンジ精神が大事にされていて、それと自分自身がやってきたことが合致して応援してもらえたというところがありました。そのように、会社の方針と、自分のアピールポイントをリンクさせてできることを考えることもひとつかなと思います。

東京パラリンピックが契機となった問題提起

IOC総会にて、左から二人目が谷氏。(2013年) 【本人提供】

IPCのアギトス財団(2012年に設立されたIPCの開発を担う機関。インクルーシブな社会実現のためのツールとして、パラスポーツの発展を国際的にリードする機関として活動)がIPC公認教材として『I'm POSSIBLE』の開発に乗り出し、そのアギトス財団と業務提携し、日本財団パラリンピックサポートセンター(2022年1月1日付で日本財団パラスポーツサポートセンターに改称。以下、パラサポ)が世界に先駆けて『I'm POSSIBLE』日本版の開発に取り組むなど、パラリンピック教育の推進が図られてきました。また、ほんの一部に限られましたが、実際に東京パラリンピックを観戦に訪れた子どもたちもいました。そうしたなかで、未来に向けては希望の光が差し込まれた気がしますがいかがでしょうか?

東京パラリンピックは教育的価値が高いということで、少しでも多くの子どもたちに見てもらいたいという取り組みが行われてきたことは、とてもありがたいと感じていました。実際に東京パラリンピックを観戦できた子どもは少なかったのですが、この8年間の取り組みでパラリンピックの価値を認識していただくことができたと思っています。それぞれの学校の授業で、パラリンピックに触れる機会があった子どもたちは多かったと思います。テレビを通しての観戦だったとしても、リアルタイムで見てくれた子どもたちも多かったと思いますので、その点でも開催したことは決して無駄ではなかったと思っています。

谷さんは、以前からハード面でのバリアフリー以上に、気持ちの部分での変革のほうが重要だとおっしゃっていました。

そういう意味でも、子どもたちにパラリンピックや障がいのある人たちのことを知ってもらう機会を設けることは、とても大切だと思っています。やはり大人になってから自分の考えや意識を変えるというのは、そう簡単はなことではないと思うんです。私自身の経験からもそうでした。私は早稲田大学に入学した年の2001年に骨肉腫を発症し、右足の切断手術をすることになりました。それから義足で生活するようになったわけですが、実際に自分自身が障がいを負ってみて初めて気づいたことがたくさんありました。それまで勝手に抱いていたイメージがあって、自分とは違う、関係のない世界だと思い込んでいたんです。でも、実際はそうではありませんでした。障がいを負ったからと言って、何か人として劣るわけでもないですし、ただ義足を履いているだけでふつうに生活している同じひとりの人間なんですよね。でも、障がいを負うまでは、そういうふうには考えられていなかった。
でも、まだ先入観がない子どもたちと接していると、こちら側の想像を超えて、すぐに壁を取っ払ってくれたりするんです。ですから、いろいろなことをスポンジのように吸収することができる子どものうちに知ってほしいなと思っています。子どもたちにとって「ワオ!」という驚きや発見って、心を育てるうえでとても重要で、パラリンピックにはその「ワオ!」がたくさん詰まっていると思うんです。実は私自身、障がいを負った以降も、自分が知らなかったほかの競技の方たちからたくさんの「ワオ!」をいただくことって結構多いんです。そのたびに「ああ、人間というのは、こんなにも可能性があるんだ」と思います。そういう気持ちを、子どもたちにはどんどん育んでいってもらいたいなと思っています。

今回の東京オリンピック・パラリンピックのテーマは、「スポーツには世界と未来を変える力がある」でした。谷さんも、招致の際、最終プレゼンテーションで「スポーツの真の力」として「新たな夢と笑顔を育む力」「希望をもたらす力」「人々を結びつける力」をおっしゃっていました。それは、どんな思いからの言葉だったのでしょうか?

自分自身の体験から出てきた言葉でした。病気になって義足になった時に、一度はどん底に落ちました。というのも、パラリンピックとか義足でできるスポーツがあることを知らなかったので、「もうスポーツはできない、走れないんだ」と思って、ひどく落ち込んで、「これから先、どうすればいいんだろう」と悩みました。でも、そこからパラ陸上というスポーツと出合ったことで、一歩一歩前に進んで、自分らしさを取り戻すことができました。
また、2011年に起きた東日本大震災も大きかったです。私は被災した宮城県気仙沼市の出身ですが、震災が起きて初めて地元に帰った時に見た光景は、今でも何と言葉にしていいかわからないくらい、ただただ唖然とするしかないほどのありさまでした。子どもたちにも、何と声をかけていいかわかりませんでした。でも、何とかして前を向こうとしている子どもたちの姿を見た時に、改めて自分が義足になった時のことを思い出しました。当時は、どうやって生きていこうかとか、生きる価値みたいなものをすごく悩んでいて、そういう時にスポーツをすることで、すごく力を与えてもらったんです。そのことを振り返りながら、「こういう時こそ、子どもたちにも前に進むエネルギーが必要だ」と思いました。私の場合はそれがスポーツだったわけですが、子どもたちそれぞれに好きなものがあって、それがエネルギーになるんじゃないかと思いました。
だから、とにかく心の扉を開いて、何でも思い切りチャレンジしてほしいという気持ちを伝えていたんです。そういうなかで、一緒に走ったり、縄跳びをして遊んだりしていると、子どもたちの表情が明るくなったんです。そんな子どもたちの笑顔を見ていて、「やっぱり体を動かすのって、エネルギーが沸いてくるし、前に進む力を与えてくれるんだな」と改めて思いました。それを招致の際のプレゼンテーションで伝えたいと思って、あのような言葉になりました。

東京オリンピック・パラリンピックでは、「多様性と調和」「ジェンダー平等」などが重視されました。しかし、開幕前にはジェンダー平等における問題発言があるなど、ゴタゴタもありましたが、アスリートの視点からはどのように感じていたのでしょうか?

日本に今ある問題が表に出た形だったと思いますが、ただ、それは国際大会を開催したからこそ出てきたものでもあったと思うんです。また問題となったからこそ、組織委員所属しているサントリーから社長賞を受賞(左はサントリー新浪社長)会の理事の男女の比率が同じようになるなど、改善された点も多くあったと思います。そして、東京オリンピック・パラリンピックの開会式では、女性であり、アスリート出身である橋本聖子会長がスピーチしていらっしゃる姿は、とてもかっこいいなと思いましたし、これからの社会のあるべき姿の象徴だったと思います。橋本会長をロールモデルとして、今後、さまざまな社会で、さらにジェンダー平等が推進していくことを願っています。

所属しているサントリーの新浪社長(左)から社長賞を受賞する。(2013年) 【本人提供】

アメリカでは2019年6月に、世界で初めてオリンピックとパラリンピックの組織を一体化させたUSOPC(アメリカオリンピック・パラリンピック委員会)を立ち上げました。日本のJOC(日本オリンピック委員会)とJPC(日本パラリンピック委員会)も、そういう統合の流れとなるように思われますか?

JOCとJPCとでは、組織はまったく違いますが、ただ関係性としては距離がとても近づいていると思います。それこそ今回の東京オリンピック・パラリンピックでは初めて、開会式で日本選手団が着用する公式服装が同じでした。そういうことが、大きなきっかけとなっていくのかなと思います。特に、自分が所属するトライアスロンは、オリンピックもパラリンピックも同じひとつの組織なので、とてもすばらしいなと思っています。サッカー界も、2016年に7つの障がい者サッカーの団体を統括する日本障がい者サッカー連盟が設立され、日本サッカー協会の関連団体として加盟していますよね。パラリンピック競技の団体のなかには、財源が乏しい小さな組織もたくさんありますので、このようにして一緒になって競技を盛り上げていくというふうになっていくのが理想の形だと思います。

たとえば、日本財団ビルのなかに日本財団パラリンピックサポートセンターができ、パラリンピック競技のNF(国内競技連盟)の事務局が置かれたことも、大きかったのではないでしょうか。

パラサポの設立は、NFにとっては本当にありがたかったと思います。組織としての基盤がないNFがほとんどだったと思いますので、まずあのようなすばらしいオフィスを構えられるというだけでも違いましたよね。また、パラサポセンターにはパラリンピック関連の情報がすべて集約されますので、どのNFも取りこぼされずに、みんなで東京パラリンピックに向かって動くことができました。

IOC総会での東京招致最終プレゼンテーション。(2013年) 【本人提供】

今、世界で「SDGs」が叫ばれ、持続可能な社会をめざそうという動きになっています。スポーツ界も考えていかなければいけないテーマだと思いますが、ひとりのアスリートとしてどのように考えていますか?

まずは、自分たち一人ひとりが小さなことでもできることを考えて、それを実行に移すということが重要だと思います。今回の東京パラリンピックに向けて、IPCが「WeThe 15」というキャンペーンを行いました。これは、世界の人口の約15%にあたる約12億人が、何らかの障がいがあるとして、障がい者は決して遠い存在ではなく、身近な存在であって、だからこそ共生社会に積極的に参加しようという意識変化をもたらそうとしたものです。
私自身、障がいがある人が15%もいることを初めて知って驚いたのですが、競技をするのは私自身のためだけでなく、多くの人たちにとっても大きな意味のあることなんだということを改めて感じながら、東京パラリンピックに臨みました。そのように、何事も身近に感じることで、意識も言動も変わっていくのだと思います。もちろん、パラリンピアンがすべての障がい者の代表ではないという批判があることも、実際にそうでないことも重々承知しています。ただ、東京パラリンピックで私たちの姿を見ていただいたのをきっかけにして、障がいのある人たちへの意識を変えることにつながったのではないかなと思っています。

子どもたちが「好き」をエネルギーにできる活動に注力

今後、谷さんにはパラスポーツ、日本のスポーツ界のさらなる普及・発展に携わっていくことが期待されていると思います。

これまでの経験を生かして、何かしらの形で恩返しをしたいと考えています。特に、東京パラリンピックでせっかく生まれた流れを止めてはいけないという気持ちはとても強くあります。具体的にどういう形でというのは、今模索している段階ですが、さまざまな方からヒントをいただきながら、自分らしい道を歩んでいけたらと思っています。

さらにパラスポーツが普及していくために必要なこととは何でしょうか?

まずは、誰もがトライできる環境があることが重要だと思いますし、日本スポーツ界が投資すべき部分は、そこだと思っています。どの競技でもそうですが、「やってみたい」と思った人が、すぐに始められる環境にあるのかというところが、非常に気になっています。というのも、パラトライアスロンを新たに始めるという人と、ほとんど出会わないんです。ですから、今の現役選手が引退したら、どうなるのかなと心配です。2012年ロンドンパラリンピック後、もう一度ロンドンを訪れて、パラスポーツの環境についても視察したのですが、ロンドンでは冬場にさまざまなスポーツを体験する場があって、本格的にやってみたいという人に対しては、その地域のスポーツクラブを紹介するというシステムになっていました。すごくすばらしいなと思ったのですが、日本でも今後、そうした機会を喪失しないようなシステムが必要だと思います。

障がいがあって、スポーツに躊躇している人も、まだまだ少なくないのではないでしょうか。

たくさんいらっしゃると思います。「自分には無理」と思っていたり、やりたくても手伝ってくれる人がいなくて、一歩が踏み出せない人はまだまだいると思うんです。そういう人たちが体験をしたり、紹介をしてもらう機会があるのとないのとでは、雲泥の差だと思います。東京パラリンピックの開催をきっかけに、首都圏では体験会が頻繁に行われたりしているので、初めてスポーツをする経験ができた人も多かったと思います。でも、地方の方では人数も少ないですし、すぐ近くに施設がなかったりするので、そういう人たちをどう支援していくのかということが、これからの課題になってくると思います。

サントリー主催の車いすバスケットボールのイベントに参加。 【本人提供】

日本のスポーツ界では、現役を引退したあとのセカンドキャリアの問題が叫ばれて久しいわけですが、パラスポーツのセカンドキャリア事情については、どう感じられていますか?

大いに課題があると感じています。いいか悪いかは別として、東京パラリンピックに向けては競技に専念できるようになった選手が増えました。ただ、これからも同じような環境が続くかは不透明ですし、競技に専念してきたからこそ、引退したあとのことが不安だという選手もいると思います。私たちの世代は、競技に専念できる環境はほとんどなくて、なんとか仕事と競技との二足のわらじでやりくりしてきたなかで今があるので、常に危機感を抱いている選手も多いと思います。一方で、若い選手たちは、高校や大学を卒業してすぐに競技に専念できる環境を与えられることが当たり前のなかでやってきた部分もあると思うので、引退したあとのことまで考えられている選手は少ないと思います。現役選手に対してセカンドキャリアやデュアルキャリアの重要性を伝える場も必要ではないでしょうか。

今後、競技生活はどのように続けていこうと考えているのでしょうか?

今の時点では、次の2024年パリパラリンピックをめざそうとは思っていません。ただ、スポーツとしてトライアスロンは続けていこうと思っています。勝負の世界でというよりも、自分自身の心身が健康であるためにも、体を動かすことは欠かせませんからね。

今後、ご自身の夢も含めて、競技以外でやっていきたいと思っていらっしゃることは何でしょうか。

私が働いているサントリーでは、2011年東日本大震災で被災した東北3県(岩手県、宮城県、福島県)におけるスポーツ支援プロジェクト「チャレンジド・スポーツ」を2014年から行ってきました。子どもたちにパラスポーツを一緒に体験したり、パラアスリートと交流することで、スポーツを通して元気と希望をお届けしています。このような事業を自分の会社でやっていただいていることは、とてもありがたいと思っています。パラアスリートとしてやってきた自分自身が認めていただけたのかなという部分もありますので、今後もこうした活動に継続的に携わっていきたいと思っています。特に、子どもたちとの触れ合いを大事にしていきたいですね。
どんな子どもも、目に見える問題ばかりではなくて、多かれ少なかれいろいろなことと闘っていると思うんです。そういうなかで、子どもたちにとって夢や目標は生きるエネルギーになると思うんですね。ですから、子どもたちが夢や目標を見つけられるお手伝いが少しでもできたらなと思いますし、パラアスリートである自分自身だからこそ、子どもたちに届けられることもあるのかなと思っています。もちろん、無理に夢を見つける必要はないとは思います。自分自身も、子どもの時には夢を見つけることが苦手だったんです。ただ、何かしら好きなものはあると思うので、まずは「好き」という気持ちを大事にして、そこから何か夢や目標が生まれればいいなと。そのお手伝いができたらと思っています。

インタビュー当日の様子。(2021年) 【フォート・キシモト】

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著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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