復路7区 早大・鈴木創士 箱根事前特集『実』 

チーム・協会

【早稲田スポーツ新聞会】

【早稲田スポーツ新聞会】取材・編集 戸祭華子

今年は3月の日本学生ハーフマラソン選手権(立川ハーフ)に出場後は長らく不調に苦しんだが、復帰後は2種目で自己記録を更新するなど波瀾(はらん)万丈のシーズンとなった鈴木創士(スポ3=静岡・浜松日体)。過去2大会で好走し、相性の良い東京箱根間往復大学駅伝(箱根)に向けてお話を伺った。

※この取材は12月12日に行われたものです。

「できることをやれ、ただ腐ってるだけじゃだめだぞ」

質問に答える鈴木 【早稲田スポーツ新聞会】

――まず、前回の箱根の事から伺います。4区で、ラスト5キロで順位を8位から3位まで上げ、ゲームチェンジャーとしての役割を果たされました。ご自身で振り返っていかがですか

 正直運が良かったというか、結果がいい方に転んでも悪い方に転んでも今考えたらおかしくなかったと思っています。その中で最後の5キロでしっかり順位を上げられたのは、そこまでしっかり練習を積めてこれた成果だと思っています。結果を出して良かった、ほっとしたというのが正直あります。やはりその中でも中谷さん(雄飛、スポ4=長野・佐久長聖)や直希さん(太田直希、スポ4=静岡・浜松日体)が日本選手権1万メートルに出場されて、あまり調子が良くなかったことを踏まえると、もっと自分が頑張らなくてはいけなかったなというのはあります。

――うまく走れたというのは練習量からくる自信が要因ですか

 そうですね。ただ、練習がすごくできていたのにあれしか走れなかったというギャップは感じました。

――チームとしての6位という結果はどのように受け止められましたか

 正直悔しいというところがまずありました。当時も3位以内を目標にしていて、その目標からは程遠い結果ですし、チームは27分台が2人いて、28分台前半もどこのチームよりも多い状況でも勝てなかった、優勝どころか目標達成もできていないというのは、何か考えないといけないなという部分はありましたね。

――その中で得た収穫、反省点は

 収穫は、強いて言うならラスト5キロの上り坂が向かい風なのですが、そこで人を抜いてこれたことは、自分のスタミナへの自信につながったかなと思います。課題は、ラスト5キロまでの15キロまでもっと速いペースで行けなかっただろうか、なぜ区間賞を取れなかったのかということです。1位はちょっと抜けていましたが、2位の駒澤までは狙える範囲にいたと思うので、なぜそこを狙えなかったのかなど、自分に対する課題の方が、収穫という大きな括りでいうと大きいです。

――最後の5キロの上りで順位を上げられました。上りに備えて何か特別な練習などはされたのですか

 長野の菅平で結構上りを意識して練習するようにはしていました。当初は2区を想定して練習していて、2区を想定していたら4区など他の区間になっても余裕をもって走れるだろうと思っていました。2区を意識して上りは練習していました。

――昨年も夏はうまくいかなかった中でも箱根は好走されました。要因は何かありますか

 箱根に向けて体が勝手に高まっていくというのもあるのかもしれないです。理論的に考えるならば、箱根前の集中練習、追い込んでいる期間に何ひとつ抜かずに、自分のやるべき練習と、監督が提出したメニューをしっかりこなして「これだけの練習量をやっていれば大丈夫だ」という自信がついたことが要因かなと思います。

――1年生のときに箱根で活躍されたいいイメージもあったのですか

 そうですね、やはり1年生の時のいいイメージはありました。

――次に、シーズン序盤のことについてお聞きします。3月の立川ハーフを走られた後から不調が続いたと思うのですが、その時の状況を振り返っていただいていいですか

 今年1年を振り返るなら本当に波瀾(はらん)万丈というところで。3月から7月は本当につらくて、何もできませんでした。競技生命が危ういとお医者さんから告げられていて、気持ち的にも落ちている自分がいました。その時期でしかできないこと、筋力トレーニングなどはやはり疲れておろそかになってしまう部分なので、そのような部分をしっかりやろうと思って取り組んでいました。

――そのような時期で他の選手や監督、コーチなどからかけられたアドバイス、言葉で何か印象に残っているものはありますか

 先ほどの「今しかできない所をやろう」というところでしたら、ちょっともう結構なケガだったので、父と母に相談した部分がありました。そしたら、「とりあえず今休んでできることをやれ、まあただ腐ってるだけじゃだめだぞ」というのをお父さんに言われたことは、1番印象に残っています。

――7月まで走れない期間が続いたシーズン序盤でしたが、本来走れていたとして立てていた3年目の目標などあれば教えて下さい

 トラックシーズンは、走れていたら入賞圏内を狙えるような力はついていたと思います。関東インカレ(関東学生対校選手権)とか、日本インカレ(日本学生対校選手権)とか、その他の記録会とかでも5000メートルだったら13分40秒台、30秒台とか、1万だったら28分20秒台、もう27分台を狙って行けるような力はついているんじゃないかなと視野に入れていました。
 3年生は駅伝では全日本大学駅伝対校選手権(全日本)からのスタートになってしまいましたが、出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)や全日本、箱根という3つの駅伝で必ず区間賞を取りたいと思っていました。僕が最も印象に残っているのは3年生の時の東洋の相澤さん(相澤晃、現旭化成)が4区で区間新記録の走りをした時で。1年間を通して最後、箱根はそんなイメージで行きたいと思っていました。

――ケガをされている間に鍛え直した点、何かあれば具体的に教えていただけますか

  まずはケガの再発防止、股関節周りのトレーニングと自分の短所である体幹、あとは上半身のトレーニングをやっていました。主に足が動かせなかったので、それ以外でできるトレーニングをやっていたという感じですね。

――夏合宿は別行動だったと伺いました

 夏合宿は全部チームと別行動でした。9月に入ってから本来岩手での合宿になるはずだったところから合流できましたが、そこまではずっと1人でした。

――その間は先ほど仰っていたようなトレーニングが中心で、走れられたりはしていたのですか

 少しは走っていましたが、ジョグして、ポイント練習を少しやるくらいです。なので自分が想定していた満足のいく夏合宿からは程遠かったです。

――夏合宿で走りこめなかった中で、箱根の長い距離への対応についてはどのように考えられていますか

 全日本でロングの17キロ区間を走ったというところは、ひとつ自分の自信にもなっています。出雲は短い距離にフォーカスした練習になるのですが、出雲を走れなかったので、そこを完全に飛ばしました。9月、10月で走り込みを、全日本の7区8区を想定されたトレーニングを監督(相楽豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)とも相談して作っていました。それをしっかりやってきたので、そこ(長い距離)に対しての不安はないと思います。出雲に出られなかったのは悔しいですが、逆に箱根まで見据えたトレーニングを9月、10月にすることができました。

――出雲のことは視野に入れずトレーニングを積まれたということですね

 出雲は正直厳しいかなと。そこを狙うよりもその先でもっといい結果を出せるようにと頑張ってやっていました。

課題を感じた全日本

秋には1万メートルで自己ベストを更新した 【早稲田スポーツ新聞会】

――走れていない期間が長かったわりに体重が増えたりしていなかったと伺ったのですが、その点ご自身で管理は意識していたのですか

 全く意識してなかったですね。食べたいものを食べて、むしろ走れないことへのストレスがすごく強くて、痩せちゃって体重が減るみたいなところを、それでも何とか食べようとしていたらプラマイゼロになりました。

――ストレスを軽減するような生活を心がけたという感じですか

 そうですね、できるだけストレスフリーな感じで、食べたいものを食べてという感じです。

――1人でいる時間が長かったのですか

 1人でいすぎてつらい時もありましたし、1人でいないと考えすぎてつらい時もありました。わがままですが、何をしていいか分からなかったです。

――次は復帰された後の事についてお伺いします。9月の5000メートルで復帰され、いきなり自己ベストでした。復調のきっかけなどは何かありますか

 それまで練習をしっかり積めていた事が一番はあると思います。それこそ9月自体はしっかり走れていました。自分的にはあのタイム(13分54秒40)は全然納得のいくものではなくて、もっといいタイムが本来なら出るのではないかなと思っています。ですが、自分の8割くらいの力は出し切れたのではないかなと思います。

――出雲は不出場となり鍛錬の時期となりましたが、チームの結果はどのように受け止めましたか

  たらればにはなってしまうのですが、それこそ千明さん(千明龍之佑駅伝主将、スポ4=群馬・東農大二)が出ていたら、僕が出ていたらなどと思う面もありました。またシンプルに、相対的に結果を見て「なぜこの結果なのだろう」という悔しさと同時に、やばいなという危機感からなぜだろうと考えることが多かったです。

――その後はやはりチームでミーティングなどを重ねられたのですか

 4年生の方々中心にミーティングなどをして、これではダメなのではという話をしました。今はチームとしてまとまってきているのではないかと感じています。

――全日本は2年連続で7区を走られました。全日本の走りはご自身で振り返ってどのように評価されますか

 高くはないですね。30点とか40点くらいですかね。

――では課題が沢山見つかったのですか

 課題と、自分のせいで負けてしまったのではないかなという罪悪感ですかね。その気持ちの方が強いです。

――全日本を走って感じた具体的な課題などあれば改めて教えて下さい

 大きなところで言ったら、田澤(廉、駒大)、近藤幸太郎(青学大)などといった同級生との力の差をすごく感じたところです。自分があのような走りだったら絶対ダメだったと感じています。全日本では、僕が多分1位で山口さん(山口賢助、文4=鹿児島・鶴丸)に渡して、優勝するというパターンしかなかったと思います。それに対して全く仕事ができなかった、自分の中で考えているこれくらいの仕事、大丈夫だろうという及第点からしても全然できなかったです。また、多分監督や他のファンの方々から求められている「こいつはこれくらい走ってくれるだろう」「これくらい走ってくれ」という思いに対しても、全く応えることができなかったので、それがもうダメだなと思うところですかね。

――全日本前、10月14日の早大競技会は差し込みで苦しい走りになったと思います。そこから全日本までの短期間でどのようにもっていかれたのですか

 なんとかしなきゃいけないというところがあって。10月の記録会のときは差し込みが来てしまって、その原因をずっと考えていました。結果的に言うと、言い訳がましくなるのですが、全日本も差し込みが後半の方にきてしまいました。ずっとこのお腹の痛みだったり差し込みには1、2年くらい悩んでいて、試合の時のキツくなった時に出てしまうことがあって、研究論文を調べたりもしていたのですが、まあ練習面では変えはしなかったですね。練習以外でどうしたら差し込みが出ないのだろうと調べたりしていました。

――差し込みの原因を探るということを継続的に、全日本前の期間もやっていたのですか

  そうですね。自分なりに継続的にやっていた面と、自分の力だけでは少し厳しい面とかもあったので、「何か知っていますか?」などというのは聞いて回ったりしていました。

――やはり監督やコーチ陣に聞くことが多かったのですか

 監督やコーチ陣はすでに知っていたことだったので、なぜだろうかという感じで一緒に考えてくださいました。それ以外にもトレーナーさんや、実業団でコーチをされている方、本当に初対面の方でも「すいません」と言って聞きに行ったりしました。大学で研究をされている教授の方にも聞きに行ったりしました。

――今の練習などでの差し込みの出具合などはどのような感じですか

 もう全くないという感じです。差し込みなどの研究は沢山進んでいるのですが、なぜなるのかがまだ分かっていないんです。これじゃないかという材料が何十個もある中で、「自分はこれをやらなければ」というのを求めていました。例えば当たり前ですけどレース3時間前以降にご飯を食べないとかだったり、サプリメントを摂らないこと、それから呼吸の仕方を変えてみるだとかそういったいろいろなやり方で差し込みを出さない方法がありました。なかなか自分に合うものがなかったのですが、最近になって「これだったら良いのではないかな」というので、この前の1万のレースを走れたというところですね。

――うまく自分にあったものが遂に見つかったという感じですか

 そうですね。

――1万メートルでは自己ベストを出されました。そのレースを振り返って、秋の流れはどのように捉えられていますか

 秋だけで言えば結構理想的にきていると思っています。トラックシーズンに走れていたらまた別の話なのですが、夏からみて、秋にここまでもってこれたというのはすごく良かったというか、自分の考えていたプランになってきているのではないかなと思います。

――想定通りですか。それとも想定以上ですか

 想定通りか少し想定以上かというくらいです。

チームの優勝に貢献できる走りを

――大きなトピックとして、立候補で次期駅伝主将になられたというのを部員日記で拝見しました。その経緯、理由を教えてください

  ならないといけないなとは考えていて。キャプテンのあり方に思うところがあったのと、マネジメントとかを勉強するのが好きだったというのもあり、何も知らない状態でチームの運営をするよりも、僕がやった方がいいのではないかと思ったのが要因ですね。

――3年生で上級生となり、走りの面や精神面で成長を感じたなということはありますか

 つい昨日のことなのですが、写真を見返していて、1、2年生の頃はバカなことばっかりやっていたなと思いました。全体的に、相対的に見てもすごく成長したなと、人間的にすごい大人になったなと感じました。

――まだあまり日は経っていないですが、次期駅伝主将に決まってから現在までで、ご自身の中で何か変化はありますか

 選手それぞれの性質を知るように努力するようにはなりました。

――箱根に向けて違う取り組みを模索していくとありましたが、具体的に今取り組んでいることがあれば教えてください

 去年この練習をやっていたから同じようにやれば今年も走れる、おととしこの練習をやったから今年もその練習をやれば走れるとかは全く思っていません。それ以上あるいは以上以下ではなくて、違う練習をやろうとは思っています。それは体幹トレーニングなどといった、4月からずっとやっていたものの継続に加えて、ケガをしない取り組みをやっています。

――集中練習の期間に新しく始めたことはあまりないという感じですか

 そうですね、ケガを未然に防ぐストレッチやケアは集中練習に入ってより多くやろうと思ってやり始めました。

――ありがとうございます。チーム内のライバルは誰になりますか

 井川(龍人、スポ3=熊本・九州学院)とかはやっぱりライバルというか一番仲が良い友だちでもありますし、一番気にする存在ではありますね。

――今年も主要区間での出走が予想されると思うのですが、他大で意識する選手はいますか

 他大の選手で意識する選手はあまりいないです。強いて言うのであれば、この前の1万と去年の箱根でも負けた創価大の嶋津さん(雄大)には負けたくないなと感じています。

――4年生との最後の駅伝となります。特別感じることや、これまでを振り返っていかがですか

 まず、ここまですごくお世話になってきましたし、4年生があってこそのこのチームかなと思っています。それはやっぱり強い中谷さんとか直希さん、千明さんなどという柱がいて、やはりその強さに魅せられて早稲田大学に入ってきたり、早稲田大学で頑張っているという選手はすごく多いと思います。ですので、そういった先輩方に最後優勝して卒業していってほしいなと思います。

――その中でも特に太田選手とは高校が同じで、今回が一緒に走る最後の駅伝になりますが、どんな先輩でしたか

 僕は本当にやんちゃ坊主だったので、もう怒られてばかりでした。もういつも、この前も怒られたかなという感じで、風呂で騒いでいたら怒られました。よく叱ってくれる先輩という、貴重な存在です。なかなか人を叱るということはしてくれないと思うので(笑)。そう考えると、ここまでなんだかんだ怒られてはいますが、いろいろな面で気にかけてくれているのかなと思います。

――競技面で思うところはありますか

 やっぱり競技面は1番、中学も同じ地区ですので、走ったらいるというような存在で、勝ったり負けたりしていました。今はすごく置いていかれている感じがするので、負けたくないなと思います。

――箱根に向けて課題はありますか

 主要区間を走っていかないといけないなと思っています。ですが、課題というのはそんなになくて、自分としっかり向き合い、自分の力を出し切れる方法を模索していって、箱根当日に自分がこの1年で一番調子が良いと思える状態で臨めればいいかなと思います。

――今回走りたい具体的な区間は

 僕は本当に速い人と走るのが嫌いなので、絶対区間賞を取れるところが良いです。なので10区とか、9区とかですかね(笑)。

――10区で優勝のゴールテープを切ってといったイメージですか

 はい、10区で区間賞をとって、ゴールテープ切ってみたいですね。

――ありがとうございます。では今回箱根で、自分のここを見てほしいという点、強みを教えてください

 粘り強さですね。ここまですごいリミッターの外し方といったところを探してきたりしたので、そこです。やはり粘り強さという感じです。

――箱根に向けての個人の目標はやはり区間賞になるのですか

 そうですね、やはり区間賞は個人としては欲しいです。ですが、今回は何より個人がというよりも、『チームが勢いづく走り』ができたらいいなと思っています。チームが最後優勝できる走りであれば、別にどのような走りでもいいかなというふうに思っています。

――最後に、次期駅伝主将として挑む箱根への意気込みをお願いします

 ここで結果を出した方が、駅伝主将としての面子が立つという面もあります。また、駅伝主将になっていくという自覚を持ち、中途半端な走りはできないと思っています。

――ありがとうございました!

【早稲田スポーツ新聞会】

◆鈴木創士(スポ3=静岡・浜松日体)

2001(平13)年3月27日生まれ。175センチ。静岡・浜松日体出身。スポーツ科学部3年。5000メートル13分54秒40。1万メートル28分26秒41。具体例を交えながら、分かりやすく取材に答えてくださいました。エントリーメンバーに聞いた『無人島でも生きていけそうな方ランキング』1位タイの鈴木選手。箱根でもその粘り強さに期待です!
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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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