初五輪の山田美諭、メダルに一歩届かずも「純粋にテコンドー頑張っている姿を」

平野貴也

魅力、熱い気持ちが伝わる価値ある戦い

メダル獲得はならなかったが、山田美諭の熱い気持ち、挑戦する姿勢は多くの人の心に響いたはずだ 【写真は共同】

 挑戦の過程を振り返れば、「あと一歩」の言葉が加わる健闘にも意味がある。しかし、選手が直面するのは、ただ「メダルに届かなかった」現実だ。東京五輪のテコンドー競技が24日に開幕。女子49キロ級で初出場を果たした山田美諭(城北信用金庫)は、3位決定戦に進んだが、リオデジャネイロ五輪銀メダルの強豪ティヤナ・ボグダノビッチ(セルビア)に6-20で敗れて涙をのんだ。2Rまでは接戦だったが、間合いを詰める瞬間を狙われて連続失点を喫した。

 先に行われたテレビメディアのインタビューに答えた後だったが、まだ呆然(ぼうぜん)とした表情だった。記者取材エリアで山田を呼び止めると、用意されているマイクを通り過ぎていたことに初めて気づいた。

「まだ、受け入れられていません。必ずメダルを持ち帰ると約束していたので。本当に情けない気持ちでいっぱいです」

 試合を終えた直後の感想に、メダルの存在の大きさを感じた。メダルは、支えてくれた人たちへの感謝の象徴となる品。日本のテコンドーが世界に通用することを証明する品。未来の選手に可能性を示す品。あるのとないのとでは、確実に違う。それを知っているから、抑え込んでいる涙が頬を伝うのだろう。日本勢では、2000年シドニー五輪で岡本依子が獲得した銅が唯一のメダル。それに続く快挙まで、あと一歩に迫ったが、届かなかった。

 しかし、その戦いぶりに価値がないわけではない。開催国枠で第4シードの山田は、初戦で台湾の選手と対戦。右足立ちの構えで左足を素早く動かし、相手の前の足をさばきながら連続技を蹴り込む、いつものスタイルだったが、夢舞台の緊張からか動きの硬さが目立ってリードを許す展開。だが、最終Rの残り40秒で胴蹴りを決めて逆転。10-9の1点差で五輪初勝利をつかみ取った。準々決勝では、テコンドーの本場である韓国のシム・ジェヨンと対戦。1つ下の46キロ級の世界王者を相手に、得意の前蹴りを次々にヒットさせて16-7と圧勝。準決勝に進出した。この活躍で、日本勢メダル第1号となる可能性が浮上。民放が緊急中継に切り替えた。

 準決勝は、19年世界選手権女王のパニパック・ウォンパッタナキット(タイ)と対戦。前蹴りを放った後、ヒザ下の振り戻しで胴蹴りにつなげる連続技は、WT(ワールドテコンドー)の公式サイトで「コブラ」と紹介される巧みな足技。山田はリードを奪われ、反撃に出ようとするところを狙われ、12-34で敗れた。

 勝っていれば最高だったのは間違いない。ただ、この戦いを広く多くの人に見てもらえるところまで持ってきたことには、価値がある。試合の合間にSNSの動きをチェックすると、例えば、私の知り合いでは複数のサッカーライターが、ルールを知らない、普段は関心のないテコンドーの試合を見ていた。きっと、メダル第1号が出るなら見てみたいという思いで初めてテコンドーを見て、その魅力の一端を知った人は多くいる。

 何より、「テコンドー」という言葉を聞けば、19年の協会のゴタゴタとした騒動が印象に強いが、それを払しょくするように、競技そのものの迫力や技術のイメージを加えることができたかもしれない。山田は「競技の魅力もそうですけど、自分のテコンドーに対する熱い気持ちを少しでも感じていただけたらと思っていたので、伝わっていたらうれしい。テコンドーをやっている人たちは、本当に純粋にテコンドーが大好きな人たちばかり。純粋に頑張っている選手たちの姿を皆さんに少しでも見ていただけたらと思います」と思いを明かした。

大ケガに負けず、歩んだ道に意味がある

競技生命に関わる大ケガから5年、山田は最高の舞台にまでたどり着いた。その道のりに大きな価値がある 【写真は共同】

 そもそも、山田の競技人生を振り返れば、この場に立ったことこそ、最大の意味がある。山田は全日本選手権を5連覇していた5年前、リオデジャネイロ五輪の日本代表選考会で右足前十字じん帯と外側側副じん帯を損傷して、約1年半の戦線離脱を余儀なくされた。競技生命に関わる大きなケガ。引退も頭をよぎった。しかし、手術をして競技を続ける決断を下した。東京五輪という大舞台への挑戦は、そこから始まった。

 大東文化大で指導する金井洋監督は「あのケガがあったから、今の山田がいる。もし、リオ五輪に出場できて、競技を続けていたら、ここまで強くなっていないかもしれない。ケガとリハビリで地獄のような苦しみだったと思います。すぐには(競技を)続けようとは言えませんでした。リハビリの時期もすぐには練習に復帰させませんでした。悔しい思いを刻み込んだと思います」と大会前に、その苦しみからはい上がったことの意味を語っていた。

 今大会は開催国枠で出場する形になったが、金井監督と山田は当初、協会の派遣だけに頼らず、自力で五輪ランキングを上げて出場権を勝ち取るプランを描いて挑戦していた。リハビリからスタートし、本気で世界に挑んできた5年間。年間4大会しか行われないGPシリーズで2度の銅メダル。18年アジア大会でも銅メダルを獲得し、日本のテコンドーが世界に通じる可能性を示した。山田は「やっぱり、ケガがあったから、日々、つらい時も苦しい時も、自分を奮い立たせて頑張れていたので、本当に5年間、テコンドーを続けてきて、ここまで強くなれたのは、ケガをしたからだと思いますし、あの経験をして良かったなと思います」と長く険しかった道のりを振り返った。

 無観客開催で恩師に現場で見てもらうことができなかったのは、つらかった。しかし、自分を支え続けてきた人の一人、兄の勇磨さんが現場にいた。ただ兄妹だからいたわけではない。全日本王者として12年ロンドン、16年リオと五輪出場を目指した元選手。テレビの解説者として現場入りし、自分が届かなかった大舞台で戦う妹を見守った。18年アジア大会の際も、スタンドから必死にアドバイスや声援を送る勇磨さんの姿があった。兄の話を振った時だけ、暗かった山田の表情がわずかに和らいだ。

「すごく心強かったです。兄の方が緊張していたと思います。まだ会ってはいないですけど、同じ会場にいてくれただけで、すごく安心したので、本当に感謝しています」

 ここに至る努力がなければ、兄に晴れ舞台を見てもらうことも、テレビ放映もなく、サッカーライターがテコンドーを見ることもなければ、この記事も存在しない。確かにメダルは取れなかった。しかし、見せたかったテコンドーへの気持ち、競技の魅力、周囲への感謝は、どれも伝わったはずだ。純粋にテコンドーを追及する。大ケガに負けず、その道を進んだことの価値は、決して小さくない。
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著者プロフィール

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。主に育成年代のサッカーを取材。2009年からJリーグの大宮アルディージャでオフィシャルライターを務めている。

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