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香川真司「心が震えるか、否か。」
香川真司、13歳で縁もゆかりもない街へ
プロへの一歩は6畳2人暮らしから

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第1回

小学生の香川真司はFCみやぎでプレーすることを両親に涙ながらに懇願。子供ながらに強い決意を抱いていた
小学生の香川真司はFCみやぎでプレーすることを両親に涙ながらに懇願。子供ながらに強い決意を抱いていた【Getty Images】

 涙のわけが違った。

 親元を離れる寂しさや悲しさで泣いたりはしない。でも、心が満たされないときには涙を流した。

 サッカーであそこまで心を揺さぶられた以上は、その道を突き進まないなんて考えられない。

 香川真司は涙を流しては、こう訴えていた。

「絶対に、仙台に行く」

 小学5年生のときのこと。

 仙台にあるFCみやぎのジュニアユースの子どもたちと一緒にサッカーをする機会があった。FCみやぎのジュニアユース、つまりは中学生のチームだ。当時、香川が所属していた神戸NKサッカークラブ(現在のセンアーノ神戸)のコーチと、FCみやぎのコーチが知り合いだった。両チームは定期的に交流していて、このときはFCみやぎの面々が神戸にやってきた。

 なんや、これ。めちゃくちゃ楽しいやん!

 仙台から来た年上のお兄さんたちと一緒にボールを蹴る喜びを覚えた。

 サッカーが好きな少年であれば、自分よりも上手(うま)い人たちと一緒にボールを蹴るのは楽しい。上手い人たちと同じチームにいれば、自分が一気に上手くなったような気になれる。彼らを相手にサッカーをすれば、登るべき山に出会えた気がして、胸が高鳴る。

 その経験があまりに刺激的だったので、この年の冬休みに、今度は自分が仙台へ行くことにした。FCみやぎの監督の家に2週間ほど泊めてもらい、練習に参加した。当時からFCみやぎの練習時間は長かった。さらに、チームの練習が終わっても自主練として好きなだけボールを蹴ることができた。文字通りのサッカー漬けの生活を送った。

 西日本に住む人間にとって、東北の冬は寒い。痛いと感じるくらいの寒さだ。

 でも、香川少年は、別の痛みを覚えた。冬休みが終わり、神戸に戻ってからのことだ。仙台で過ごした時間を忘れられなかった。

「早く、仙台に“帰りたい”」

 香川少年は、両親に訴えかけていた。目には涙があふれていた。

 家族のもとを離れるのが寂しいとか、友だちと会えなくなるのが辛いと感じて、涙を流すのが一般的なのかもしれない。

 でも、香川は違った。大好きなサッカーを好きなだけやれる環境を見つけてしまった以上、そこに身を置けないのが、ただ、ただ、悲しかった。FCみやぎのサッカーはそれくらい特別なものだった。


 FCみやぎは香川が小学4年生のときに発足した、新興(しんこう)の街クラブだ。香川の3つ上の子どもたちが1期生にあたる。あの時点で、Jリーガーを輩出した実績はなかった。

 当時のFCみやぎには入団テストもなかった。Jリーグのクラブの下部組織や強豪校のサッカー部に入ろうとすれば、推薦を受けたり、選抜テストをクリアしないといけない。しかし、FCみやぎの場合はやる気さえあれば、誰でも入ることができた。


 香川は、神戸市立乙木小学校の4年生のときの文集に将来の夢を、こんな風に書いた。

香川真司
香川真司

1989年3月17日生まれ。兵庫県出身。中学入学と同時に宮城県へサッカー留学し、FCみやぎのジュニアユースに所属。高校2年生でセレッソ大阪に加入、J2得点王に輝くなどクラブのJ1昇格の原動力となる。2010年、ドイツのボルシア・ドルトムントに移籍すると中心選手として活躍し、9期ぶりのブンデスリーガ制覇やクラブ史上初となる国内2 冠に大きく貢献。2012年にイングランド・プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッドに移籍してリーグ優勝を経験。その後、ドルトムント、トルコのベシクタシュJK、スペイン2部リーグのレアル・サラゴサを経て、ギリシャのPAOKテッサロニキに所属。日本代表には平成生まれの選手として初めて選出され、背番号10を背負い、2014年ブラジルW杯、2018年ロシアW杯に出場。日本代表97キャップ、通算31ゴール。

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