新谷仁美は「アスリートの価値」を示した 恐怖に打ち勝ち、世界のトップと戦う
走れば走るほど、異次元の強さを見せる
日本選手権では日本記録を大幅に塗り替えて優勝し、東京五輪代表に内定した 【写真は共同】
レースが行われたのは、12月4日の第104回日本陸上競技選手権大会・長距離種目。女子1万メートルにエントリーした新谷は、日本新記録を大幅に更新し、東京五輪の代表に内定した。自らに課したハードルを越え、プレッシャーから解放された喜びは、ある。しかし新谷は、もうその先を見据えていた。レース後、会場で記者会見に臨むと、次のように話した。
「世界の強い選手は、タイムを狙うよりも(ペースのアップダウンの駆け引きで)勝負を仕掛けてきます。でも、(ペースの)波のあるレースに対応するには、まずタイムを近付けないといけません。まずはタイムを出して、波のあるレースで少しでも差を縮めようと考えていました。(良い記録が出て)まずは一段階クリアできたと思いますが、世界は29分台になっているので、私の30分20秒だと、300メートル先に優勝者がいる。そういう現実を見たら、まだまだだけど、まずは一段階上に行けたかなと思います」
冷静で現実的な評価だ。アフリカ勢が圧倒的な脚力を見せつける長距離トラック種目は、スピードとギアの切り替えを必要とされる過酷なレースとなる。現在の世界記録は、2016年に樹立された29分17秒45。国内の大記録を出してもまだ、世界のトップと勝負はできない。しかし、新谷は、その現実が示唆してくる「無理」という概念と勝負するつもりでいる。レース翌日、東京五輪の代表内定会見に出席した新谷は「トラックの長距離は、アフリカ勢の強さがすごく引き立っているので、日本人は無理だろうと思われがちですが、そこを私はどうしても、ぎゃふんと言わせたい。日本人でもやれることを証明したい」と宣言。さらなるスピード強化と、レース展開に振り落とされる恐怖に負けずに力を発揮し続けるメンタルの強化を課題に挙げた。
五輪の有無にかかわらず、機会創出のきっかけを
独特の表現で自らを語る“新谷節”も大きな魅力だ 【提供:日本陸上競技連盟】
この大会の開催前日、開催地である大阪府が、新型コロナウイルスのまん延による非常事態を告げ、不要不急の外出を控えるように呼びかけた。世間は今、コロナ禍で対応に追われ、疲弊している。娯楽であるスポーツ観戦も無観客開催などが多く、活気を欠いているのが現状だ。そんな中、有観客で行われた貴重な機会に、結果以上のものを見せないといけない、という言葉を何度も用いた新谷は「今のご時世、コロナ禍で皆さんが傷ついている。結果以上のものを見せて、国民の皆さんに寄り添えるか。日ごろ、応援していただいて、寄り添ってもらっていると感じていました。今度は、私たちが皆さんの助け舟になれたら。ちょっとでも、私たちを見ることで楽しみを共有できたら。それは五輪に限らず、どんな大会でも見せることができたらと思います」と語った。
東京五輪の開催が決まってから、誰が出場するのか、メダルを取るのかと、日本のスポーツシーンの多くは、東京五輪を中心に描かれている。しかし、コロナ禍で東京五輪は延期。今もなお、多くの活動制限がかかっており、開催自体が疑問視されている状況だ。世界の頂点を決める崇高な競技会だとしても、楽しめないものであれば、見る側には関係のないイベントになってしまう。ビッグイベントの自国開催は、その後に残す文化的財産が最大のメリットだ。開催が決まった頃に「レガシー(遺産)」という言葉をよく耳にしたはずだ。明確に勝負がつくスポーツから学べるものは多い。挑戦と失敗の連続の中から、一握りの成功が生まれる。場合によっては、その成功のために個人でなく、チームで力を合わせる。その繰り返しの中で、強敵や難関に挑む勇気、不屈の闘志、相手を称える度量に感動を覚え、その尊さを学んでいく。新谷が観衆の期待に応えようと走り、その姿を応援し、刺激を受けることも、その一つだ。そうした機会の創出のきっかけとなるべき東京五輪のある、なしに関わらず、日本のスポーツ界は、その機会を失ってはいけない。