沖悠哉が見せる可能性。内田篤人イチオシの若き守護神とは。

鹿島アントラーズ
チーム・協会

【©KASHIMA ANTLERS】

  “いつもの光景”になりつつある。

 試合前のウォーミングアップに始まり、試合中の飲水タイム、試合後のピッチ上。沖悠哉は、サブに入った先輩クォン スンテからさまざまなアドバイスを受けている。

「いつもスンテさんがいろいろと教えてくれます。プレーもそうだけど、立ち居振る舞いもそう。練習では、もちろん試合に出たいのがあってソガ(曽ケ端)さん、山田も含めてみんなでバチバチやっているけれど、“自分はこうした方がいいと思う”と試合だけでなく、練習中でも指摘してくれる。自分で考えているところとは違った視点で話をしてくれるので、素直にそうなんだと思えるし、それは非常にありがたいです。でも、言われないくらいやらないといけないと思うし、しっかりと試合に出ているので責任を持ってプレーしたいと思っています」

試合時に先輩スンテから指導を受ける沖悠哉 【©KASHIMA ANTLERS】

人間力を磨くことが成長の糧に

 鹿島アントラーズジュニアからアントラーズ一筋。初めてのGKは小学4年のときだった。

「いつもじゃんけんでGKを決めていたんです。あの頃はGKをやるのが恥ずかしかった。1人だけユニフォームが違うし、なんか浮いているような気がして」

 それでもすぐにGKの楽しさを見出した。小学5年の頃にはアントラーズの試合を見れば、トップで出場していた曽ケ端ばかりに目がいってしまう。2008年のAFC チャンピオンズリーグのナムディン戦ではエスコートキッズを務め小笠原満男とともに入場。3連覇を成し遂げたチームは、最高の憧れだった。

 関わってくれた指導者にも恵まれた。

 サッカーの指導だけでなく、人間力を磨くことを目指した活動は大いに刺激になった。

「ジャニアユースのときに、防空壕に行って話を聞く機会がありました。そこで亡くなった方もいるという話を聞いて、好きなこともできない時代があったことを知って、今は恵まれていると感じました」

 2011年の東日本大震災のとき、沖自身も鹿嶋市で被災した。「初めて、サッカーをあまりやりたくない、という感情が芽生えた」。そこでも、近所に住んでいたアントラーズのスタッフが一緒にボールを蹴ってくれた。いろいろな励ましでまたサッカーに向き合うことができた経験がある。

「東日本大震災から3年後、岩手県大船渡市で合宿をしました。テレビで見たことはあったけれど、実際に自分の目で見ると、よりひどさを感じました。津波で流された場所、仮設住宅を自分の目で見ました。食べ物や飲み物も限られていた。土のグラウンドでサッカーをしている子がいて、自分たちは芝生で傷一つ作らない環境でサッカーをやれていることを改めて感じた。今もそうですが、それは当たり前ではない。どうすれば勇気づけられるのか。そこは真剣に考えました。その遠征に行かせてもらえてすごくいい経験をさせてもらったし、それがあったからこそ直後の全国大会で優勝できたのではないかとも思います。幸聖さん(中村現ユース監督)には感謝しかないです」

 日々の環境に感謝し、プロとしての自覚を持った行動を考えるようになった。プロになった今では、「暇だから」と謙遜しながらも1日4回は風呂に入り、交代浴で代謝促進。抜かりなく、体のケアを行っている。

沖悠哉はいつも笑顔でファン・サポーター・メディアと接する 【©KASHIMA ANTLERS】

試合出場で見えた課題へのチャレンジ

 沖にとって長年課題としてきたことがある。精神面での安定だ。

「感情に流されてしまうところがあります。いつもだったらできているプレーができなくなると、いら立って空回りしてしまう。監督やコーチによく言われて、さらに反抗的な感情になるんですが、よく考えると本当にその通りということを繰り返し言われていました」

 ユース時代には熊谷元監督や市川GKコーチに「心が落ち着けば技術もともなってくる」と言われ続けた。

「一定の心を保つことができればやれるというのは感じています。プロになってソガさんの話を聞いていても、一喜一憂せずにやるべきことをやり続けるのが大事、というのはいつも思うことです」

 技術面で何か言われたことはない。ボール扱いはジュニア時代までフィールドを兼任し、ジュニアユースやユースに上がると沖のキックを活かした戦いがチームの武器となった。

「彼のキックを生かした戦い方をしていた。DFラインを含めたビルドアップなど、チームの武器となっていました」(中村幸聖現アントラーズユース監督)

 自分の武器が、トップでもチームの武器になりつつある。
 8月8日のJ1リーグ第9節鳥栖戦で、憧れのピッチでプロデビューを果たした。

「小さい頃からこのカシマスタジアムで試合を見てきて、いずれはこのスタジアムで試合に出て勝利することを目標にやってきました。まずは今日の試合に勝てたことは本当によかったです」。

 試合終了の瞬間、喜びと安堵の気持ちが入り混じった満面の笑顔で試合を終えた。DFラインの選手たちみんなが沖に駆け寄り祝福した。ザーゴ監督も「成長している実感があり、練習試合でも非常にいいパフォーマンスを示していたから、どこかのタイミングで起用したい思いが芽生えていた」と先発起用の理由を明かし、「今日も非常にいいパフォーマンスを示したと思います。何度かシュートを打たれましたが、非常にいい対応ができていた」とデビュー戦の出来を評価する。

 その後もスタメンに名を連ね、すでに今季16試合に出場(2020年10月28日時点)。アントラーズでGKがプロ3年目で多くの出場を重ねるのは、当時21試合に出場した曽ケ端以来の数字となる。試合を積み重ねることで自信をつけつつも、まだ成長の実感はない。むしろ、課題ばかりを痛感する日々だという。

「(課題は)めちゃくちゃある。でも、試合をやるからこそ見つかること。そこはポジティブに捉えています。クロス対応、シュートストップ、ビルドアップは状況を踏まえながらもっとつなげるところはつないでいきたい。全体として、もっともっとスケールアップできると思っています」

 今年の8月で引退したとき、内田篤人はここ数年でもっとも伸びている選手の1人に沖を挙げていた。あれから試合出場を重ね、さらなる成長を積み重ねている。沖自身はどう感じているのだろうか。

「成長しているとはまだ思えないかな……。試合についていくことで、いっぱいいっぱい。いろんな駆け引きがあるなか、それをもっと楽しめないといけない。もっともっと良くなる気がして、それが自分の今のモチベーションになっています。うまくいかないことは練習でも試合でもあるので、それをいかに自分で乗り越えていくかだと思います」

 沖悠哉が見据える自らの姿は、まだまだ先にある。プロ3年目、21歳。可能性は無限大だ。


PROFILE
沖悠哉・おき・ゆうや。GK。1999年8月22日生まれ。 184cm、82kg。茨城県出身、三笠小、鹿島中卒業。 小学生年代(ジュニア)からアントラーズで育ち、 各年代の日本代表にも選出された。2018年、ユースからトップへ昇格。次世代のアントラーズ守護神として期待が高まる。
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著者プロフィール

1991年10月、地元5自治体43企業の出資を経て、茨城県鹿島町(現鹿嶋市)に鹿島アントラーズFCが誕生。鹿角を意味する「アントラーズ」というクラブ名は、地域を代表する鹿島神宮の神鹿にちなみ、茨城県の“いばら”をイメージしている。本拠地は茨城県立カシマサッカースタジアム。2000年に国内主要タイトル3冠、2007~2009年にJ1リーグ史上初の3連覇、2018年にAFCアジアチャンピオンズリーグ初優勝を果たすなど、これまでにJリーグクラブ最多となる主要タイトル20冠を獲得している。

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